虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「大鹿村騒動記」

toshi202011-08-15

監督・企画:阪本順治
脚本:荒井晴彦阪本順治


 「テレビもねえ ラジオもねえ 車もそれほど走ってねえ」「オラこんな村いやだー」


 長野県の大鹿村にやってきて「ディア・イーター」という名の店で働きたいという青年に対して、店のオーナーである風祭善(原田芳雄)は、吉幾三コミックソングを引用しながら、自分の村を表現する。若者不足は深刻で、若者はさっさと故郷を離れて、東京へと出てしまう。多くの老人と、少ない若者で構成された村の現状を、善はそういって自嘲する。しかし、この大鹿村には、他の農村にはないものがある。
 大鹿村には300年続く伝統芸能大鹿歌舞伎」が存在していて、村はその準備と、「リニア新幹線問題」で大わらわだ。「大鹿歌舞伎」は役者やスタッフは全員村人によって構成されている。善もまたその歌舞伎に出演しつづけてきた一人なのである。

 そんなわけで、大鹿村には役者が溢れている。道を歩けば役者に当たる。バスの車掌は佐藤浩市だし、白菜の畑に行けばは小倉一郎が白菜持ちながら台詞の練習しているし、役所に行けば石橋蓮司仏頂面下げてるし、温泉宿には小野武彦、郵便を運んでくるのは瑛太、近所の商店主はでんでん、そして役所から流れてくるアナウンスをしているのは松たか子である。
 そんな村に、帰ってきた二人がいる。善の妻であった貴子(大楠道代)と、善の幼なじみであった治(岸部一徳)である。ふたりは18年前に駆け落ちして村を去ったが、貴子が認知症を煩い、手に負えなくなった治は、善に貴子の面倒を見てもらおうと村へ帰ってきたのだった。
 こうして、大鹿歌舞伎という晴れの舞台を目前にした、「役者」達の悲喜劇が幕を開ける。


 この映画の面白さは、平景清の落ち武者伝説をモチーフにした物語内物語の舞台を中心に据えつつ、役を演じる「役者」である村人たちの、「役者ではない」人間模様を描き出すことで、役者の「顔」を脱ぎ捨てた人間を、芸達者たちの俳優・女優たちが演じる、という多重構造の物語になっている。
 俳優として着実にキャリアを積み、他の映画では、自分の人生経験をもとに若者を諭したり、老獪な大物や悪党の役を演じたりするような大ベテランの俳優たちが、幼なじみ同士で低レベルなケンカを繰り広げたり、くだらない言い争いでへそを曲げてみたりする。原田芳雄岸部一徳の、18年ぶりの寝取られ寝取り同士の再会なのに、幼なじみなので、まるで猫がじゃれあうようなケンカを繰り広げているのをみているだけで、笑いがくすくすとこみ上げてしまう。
 この映画は面白いことに、俳優が俳優の衣を脱ぎ捨てるような演技が見られる。人生を重ねるごとに、様々なことを失ったり、または得たりもしている村人たちだが、一方で彼らには「役者」としてのプライドも持っていたりもする。それはまさに「村人」を「演じている」はずの俳優の合わせ鏡の姿でもある。
 長く同じ題材の歌舞伎を演じ続ける村人も、キャリアを重ねた俳優も、一皮むけば同じ「人間」。この映画は大鹿村という場所を、ある種メタ構造の中に落とし込むことによって、「役者」と「人間」というふたつの顔の、関係性を浮かび上がらせる。


 役者が演じている「役」は決して本人ではない。だが、しかし、演じていく中で、役者の中の人間が、時に役に影響され、時に役に影響を与える。


 18年。その間に出来た深い溝、そして彼らが時を経て失った様々なもの。それが、役を演じていくことで、それらが少しずつ埋まり、そして少しだけ蘇る。舞台上で、平家を裏切って源氏の妻となった道柴を演じた貴子が、舞台袖から善に投げかけた言葉に、「仇も恨も是まで是まで」と両目をくり抜く景清を演じる善の、表情の鮮烈さは、まさにこの映画のクライマックスである。


 この映画の風祭善は原田芳雄とイコールではない。だが、この映画に映る彼の姿に原田芳雄という「人間」の「気風」が、流れている気がするのは、多分気のせいではないと思うのである。阪本順治監督の、決して押しつけがましくないカメラワークや、大まじめに悩んで生きる人間のおかしみを引き出す演出も功を奏し、まるで希代の名人による新作落語を聞いているようなあじわいの、見事な群像喜劇の傑作に仕上がっている。大好き。(★★★★★)