虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「サウルの息子」

toshi202016-01-24

原題:Saul fia
監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:ネメシュ・ラースロー/クララ・ロワイエ


 第二次世界大戦中のナチス・ドイツユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺、つまり、ホロコーストについての映画、である。のだが。
 これがまたなんというか。うん。とりあえず置いておこう。


 歴史とは人の営みのうねりが生み出した流れである。
 歴史というものを、人は誇れるものとして語ろうとすると必ず歪みが出てくる。長年生きてるとわかるけどさ、人間ってきれいなだけじゃないんだよ、って。きれいなまんまじゃ生きられないんだって思う。それは人がこうなりたいという理想があって、こういう風になりたいと思っていても、実際にそうなれるわけじゃないし、どんなに傑出した人物だって、清廉に見える人にだって、人を傷つけたりしたことはいくらでもあるはずなんだよね。
 そういう人間の行為によって生み出されてきた「歴史」という「大河」はきれいも汚いも飲み込む濁流なんだよ、と思う。我々の民族はこんな汚いことはしない、って言うことを信じていたとしても、歴史を掘り起こしていけばイヤでも「汚いこと」なんてのはいくらでもあって、それと向き合いながら見ていくのが歴史だと思うのである。理想がこの国のかたちを形づくるものだとしても


 その歴史の濁流に呑まれながら、生きている1人の男がいる。



 ポーランドホロコースト=ビルケナウ刑務所。そこではガス室に送る囚人達を安心させ、そして彼らをおとなしく誘導させるために、同じユダヤ人たちがその役割を担わされた。彼らは「ゾンダーコマンド」と呼ばれた。日本語で表すなら「特別労務班」となるらしい。同胞を適切に誘導し、服を脱がせ、ガス室に入れ、服から金品を回収し、ガス室から遺体を処理していく。彼らは、その労務が終わったら、抹殺される運命にある。
 その「ゾンダーコマンド」のひとりがサウル・アウスランダー(ルーリグ・ゲーザ)であった。この任についてから4ヶ月が経過している。心の防衛本能のために無感情になっているサウルは、今日も黙々と同胞たちをガス室へと誘導して、荷物からめぼしい金品を奪い取ると、彼らの悲鳴が掻き消えるまで、ドアの前で「待つ」のである。だが、無感情に生きているサウルの前である事件が起きる。ガス室で死体を処理している時、生存者が見つかるのである。それはガスからかすかに逃れた少年であった。かすかに呼吸しつづける少年は、しかし、サウルの目の前でその生命を消されてしまう。サウルは、その少年の遺体を引き取ると、ある明確な意思を持って行動を開始する。少年をユダヤ式で弔ってあげたい。サウルは少年についてこう言う。「俺の息子だ。」と。


 映画の開幕。スタンダードサイズのスクリーンの中で、突然遠くの遠景がぼやけ、サウルに焦点が当たる。我々はこのサウルの視点で、ホロコーストで行われてる非道な現場を目撃していくことになるわけであるが。


 常にサウルの視点がこの映画を構成するショットの大半を占めるのだが、POV視点とは異なるのは常にサウルという男が画面の真ん中で写り込んでいて、彼の一挙手一投足を観客は常に見ているということだ。この時点でかなりとんでもないことをやっているということはわかる。つまりサウル演じる俳優に常にカメラが張り付き、長回しで追いかけるサウルが行く先々で殺されゆくユダヤ人や、ユダヤ人を虐殺するナチや、サウルと同じ「ゾンダーコマンド」たちがそれぞれの立場で動き回っているのである。
 まー、これだけでも一見の価値はあるのだが、この映画、一言で言ってですね。こういう言い方をしていいものかわからないのですが・・・。


 楽しいんです。もちろん、映画として。ですが。娯楽映画としてとても優秀。


 この映画の凄みは「物語=人のうねり」、思いから生み出されるアクションである、という境地にたどりついていることである。
生まれいづるボーン「ボーン・アルティメイタム」 - 虚馬ダイアリー

 かつて「ボーン・アルティメイタム」感想で僕はこう書いた。「サウルの息子」もまた、サウルの意思とは無関係に蠢く世界の片隅で明確な意思を持って動き続けるサウルの行動は、まさに彼自身の「アクション」こそが映画としての肉体として物語を牽引していくのである。映画にうねりをもたらすサウルとは無関係に、他のゾンダーコマンドたちもある目的のために動き始めていた。それは、同胞を死に追いやり、その後始末をすることで生かされる屈辱を受けてきた彼らが、反旗を翻す機会をうかがっていたのである。
 サウルが向かう道程の行く先は決して明るくはない。だが、人としてユダヤ人としてすべてを否定され、未来すら閉ざされたサウルが、一つの目的の為に、自らの意思とは無関係にうごめく世界と対峙しながら、まっすぐに動き出す物語は、娯楽映画としてもシンプルに力強い。
 なによりこの映画が作られたハンガリーでは、2015年の国内映画の興行記録1位を獲得したらしい。この映画が「ホロコースト」映画というテーマを超えた力があることと無関係ではないと思う。*1


 せめて。せめて、人として生きる。ユダヤ人として。そして、1人の男として。
 この4ヶ月を人として「生きながら死んでいた」男が、明確な意思を持った人として生きた時間。そのサウルの「意思のうねり」としてのアクションこそが、この映画が描き出そうとしたものであり、そしてその意思を残酷な世界に遺そうとした男を主人公とした「娯楽映画」としても、誤解を恐れずに言えば「実に面白い」映画であると思います。「ホロコースト映画」という固定概念に振り回されずに見ると、実に豊かな映画である。おすすめです。(★★★★☆)