虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「リップヴァンウィンクルの花嫁」

toshi202016-03-30

監督・原作・脚本:岩井俊二


「私はこの涙の為なら死ねるよ。」と里中真白は言った。


 この世は契約と嘘で出来ている。国というもの、それを支える家族というもの。それらと個人をつなぐもの。組織と個人をつなぐもの。他者とのお金を挟んだやりとりをする時に間に入るもの。我々は様々な契約によってつながりが「ある」と認識される。
 他人と本当の自分を遮るための偽りの自分。そして本当の自分という「あやふや」なものをかろうじて「こういうものである」と形作るもの。こうありたいと思う理想と、どうしようもない現実を埋めるもの。それは嘘である。
 すべて本当でアル事の方が、実は少ない。嘘は「方便」と名を変えて、僕らが生きていく事を少し楽にしてくれる。


童話絵本 宮沢賢治 やまなし: 童話絵本 (創作児童読物)

童話絵本 宮沢賢治 やまなし: 童話絵本 (創作児童読物)


 この映画の主人公である皆川七海(黒木華)は、とあるSNSに「クラムボン」という「名前」を持っている。彼女は20代前半で、派遣教師で、女の子である。しかし、それは社会的に「認識される」ための「記号」であり、「本当の私」というものをかろうじて支えているものである。彼女はそんな自分に満たされないものを感じている。
 彼女はそこにうすぼんやりとした日常に対する不安を書き連ねている。ネットで彼氏を見つけたこと、その彼と婚約し、結婚式の親戚の数が合わなくて困っていること。不安であやふやで、ずるくて自信が無い。そんな自分が彼女は、多分嫌いだ。そんな自分だからこそ、大学教員の彼氏がいて、結婚という力強い記号となる契約に、彼女はすがる。不安定な派遣教員という道をすっぱり諦め、彼女は専業主婦になろうとさえする。
 皆川七海改め、鶴川七海。新しい契約、新しい記号、新しい名前。彼女はそれが、自分の新しい「記号」になると信じている。


 だが、その彼女がすがった「嘘と契約」は1人の男の登場で崩壊することになる。その男の名は安室行枡(ゆきます)という。


 その男は自称俳優兼なんでも屋であり、SNS上の知り合いからの紹介で知り合った男である。ガンダムの登場人物とそのせりふを文字ったふざけた偽名を名乗るその男は、結婚式の偽の親戚を手配することから、浮気調査から、とにかく手広く仕事を引き受ける。だが、その男は裏で暗躍し、別れさせ屋を手配して七海と夫、その家族との信頼関係を崩壊させて離婚に追い込んだ挙げ句、窮地から救う流れを作り、七海の信頼を勝ち取るという離れ業を演じてみせる。
 一見すると悪魔のようにさえ見える、その男。だが、その男がなぜ七海にそこまでの事をするのか。それは、ある依頼主との「契約」を満たす女性であると、安室が七海を見定めたからであった。


 七海は、流されるように「クラムボン」という「あやふやな仮面」と、彼女のこれからの人生を支えるはずだった「結婚」という強力な「契約」を失うことになる。
 こうして、皆川七海は流転の末に、安室から斡旋された「親戚の偽物」バイト先で里中真白(Cocco)と出会うことになる。七海と真白は、まるで出会うことが運命であったかのように意気投合し、そして、安室から受けた奇妙なバイト話によって七海は真白と再会する。七海は真白との出会いによって、これまでの人生では経験できなかったような事に出会っていく。
 七海が「クラムボン」という仮面を捨てて得た、新しいSNSの仮面は「カムパネルラ」、そして真白のSNSでの名前は「リップヴァンウィンクル」であった。



 この映画をみて、ふと思い出したのは、「ファウスト」である。
 ゲーテの「ファウスト」は、神が「常に向上の努力を成す者」の代表としてさえ見定めた高名な学者であるファウスト博士が、学術的探求の果てに人生の充実を見られなかった事からメフィストの誘惑に乗って、この世のあらゆる快楽と悲哀を体験することと引き替えに、死後、魂を引き渡すという契約を行い、波乱に満ちた運命を生きることになる。
 しかし、この映画はもうすでに真白は、あらゆる快楽と悲哀を経験し尽くした女性でもあって、その彼女が得たい「もの」のために彼女は「契約」をして「七海」という女性と出会うことになる。
 安室という、何者かすらヨクワカラナイ「天使の顔した悪魔」のような人間と契約してまで、真白が望んだものとはなんなのか。それを観客は見守ることになる。


 「嘘と契約」で出来上がった、愚かで空虚な生を生きていた1人の女性が、一つの契約によって運命を激変させられ、その末に出会う世界によって、彼女が得るのは「力強い生」である。ファウスト博士がメフィストと契約してまで手に入れたかった「まことのしあわせ」、宮沢賢治が求めた「本当のさいわい」とはなんなのか。その一つの答えがこの映画にはある。そう思う。傑作である。(★★★★★)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

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