虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!」

toshi202010-07-13

監督: 本広克行
製作: 亀山千広
脚本: 君塚良一


 えーと。見ちゃった。ごめんなさい。(誰に謝ってるんだ。)


 てなわけで。あまりにも、「踊る大捜査線」という存在が無駄にでかくなり、政治的ポジショントークの標的になりつつある作品なので、私の立場を明確にしておく。
 テレビシリーズを含めた「踊る大捜査線」シリーズを、「一個の作品」として見て、是々非々があるのは知っているが、私は是とするものである。理由は簡単。「踊る」は刑事ドラマに「本庁と所轄」という隔たれたセカイ、差別被差別の構造をスタンダードにしたからだ。


 「踊る大捜査線」が刑事ドラマにもたらしたのは、刑事だってサラリーマンなんだ、という当たり前の日常を「元・サラリーマン」という経歴を持つ青島俊作の目線で描いたことと、キャリアとノンキャリア、「本店(本庁)VS支店(所轄)」という差別構造を、世界観の中心に据えて、その構造自体を浸透させたことにある。
 「踊る大捜査線」がなければ、ゼロ年代に花開いた「相棒」ほか数々の刑事ドラマもないと思う。それくらいの、影響力のあるシリーズであることを、いっしょくたに「邦画バブル」と断罪する人は、認識しておくべきだと、私は思う。


 警視庁本庁と所轄署の上下関係と性質の違い、そこから生まれる差別構造。それを物語の中心に据えることで、「踊る大捜査線」は「被差別者」として踏みにじられる所轄の叫びを、そのドラマツルギーとしてきた。
 差別は容易にはなくならない。それはどの世界においても言えることだ。一度差別の仕組みが出来てしまえばそれを脱却するのは困難である。「踊る」が貫いてきたのは、そこで今回も実はその世界観は変わらない。


 しかし、本来その世界観を強く描くには、映画という尺は短すぎるのだと思う。「現場を理解しない上司」に振り回され、挙げ句同僚が犠牲になり、青島激高→名台詞、というお約束。映画だとそれが、「マンネリ」になってしまい、それがこのシリーズが「ネタ」にされる要因でもある。ドラマシリーズ終盤の真下が撃たれ、映画版「1」で青島が刺され、和久さんバットで殴られ(これみんな忘れるんだよな)、「2」ですみれが撃たれた。「今度は誰が傷つくんだ→で、青島はいつ叫ぶんだ」という話になる。今回はそこからどうにかして脱却しようとした話だと思ったよ。
 「下っ端たち」という物語構造からの脱却を目指した結果、今回描かれるのは「青島俊作」についての映画になった。
 今回の「踊る3」はどちらかというと、「交渉人 真下正義」「容疑者 室井慎次」に続く、踊るレジェンドシリーズに連なる「係長 青島俊作」に近いのだと思う。


 その結果出来た映画は、なぜか「セカイ系」に近い映画になってしまった気がする。「青島俊作」がセカイの中心であり、彼を巡って「セカイ」が動く。


 湾岸署のお引っ越しという「イベント」の責任者になった青島刑事。そのイベントの最中に事件が立て続けに起こる。バスジャック、銀行強盗未遂、拳銃盗難、その後起こる連続殺人。その事件はすべて「青島俊作」および「湾岸署」を標的にしていたりする。そこに青島係長が「ガン告知」される、という衝撃的展開が出来て、青島が青島らしさを失っていく。
 そこにきて、実行犯の首謀者「野良犬」が突きつけてくるのが「青島がかつて逮捕した容疑者たちの釈放」ときた。


 この映画は、青島が「青島」自身を総括しつつ、新たな「青島俊作」を模索する映画になっている。
 つまり、和久さんも亡くなり、警視庁長官官房審議官という、警視庁の7本指ぐらいの、警察の『ゼーレシステム』にまで上り詰めちゃった室井さんは現場に貼り付けるわけもなく*1、強力な味方が現場にいない青島はナニが出来るのか、という側面がある。青島自身も出世して、青島の部下に、和久さんの甥が入ってくるという、世代交代があり、責任が伴うようになった。かつてナニをやってもいいぺーぺー刑事の青島俊作ではないわけである。時代はドラマが始まった都知事の名前が青島だった90年代末ではなく、オリンピックを招致できなかった都知事がいる10年代になってしまった。それでも「踊る」をやる意味とは?

 そこで青島が「生と死」について考えるドラマを与えることで、これまでの自分の行ってきたことの「総括」をすることになるわけであるけれど。
 いくらなんでも、青島中心にセカイが動きすぎである。青島って係長じゃん。たかだか。にも関わらず、「1」に出てきた「女レクターもどき」が執着する理由がよくわからない。かつて逮捕された意趣返しにしたって、あまりにも無駄に手間のかかる計画だし、犯行理由もあまりに稚拙な言い訳めいている。ていうか、この女レクター、どんだけカリスマだったのかが「1」で描き切れてないので、「信者」たちの信奉ぶりがいまひとつぴんとこない。


 つまりあまりにも青島自身のドラマに内向するあまり、「外の世界」とのリンクが完全に隔絶していまっているのだ。この映画の最大の欠点はそこで、あまりにも精神的な箱庭でドラマを強引に推し進めすぎているのである。


 で。「踊る」関連の映画が公開されるたびに、毎回思うことなのだが。なんで「踊る」を映画にしようと思うのだろう。オレは思うよ。「踊る大捜査線」はドラマというフォーマットこそふさわしいと。あまりにも世界観の変化を性急に描こうとしすぎである。言ってみれば「ER」を映画にしてすべてのエピソードを詰め込んでもしょーがないのと同様である。
 「踊る大捜査線」の魅力は、刑事達にも日常があり、その中に「喜びも悲しみもある」という当たり前のことではなかったか。それを映画というフォーマットの中に全てを詰め込もうとするのはもうやめようよ。「踊る大捜査線」が原点に返るならば、テレビの世界に戻るしかない。
 テレビの中でだったら、脇役達のその後だってかなり詳細に描き込めるし、時折スクリーンに映り込むたびに可愛い篠原夏実こと内田有紀をもっと堪能できるし、もしかしたらすみれさんとの三角関係みたいなものも描けば、青島とすみれの仲を進展させる潤滑剤になるはずだし、もっとこういろいろ楽しいドラマになるはずなのよね。
 それこそ、青島が「元・サラリーマン」という外の目線から「湾岸署」という「世界観」を見て、その日々の中で和久さんイズムを少しずつ注入されていったように、今回初登場の「和久さんのおい」目線でドラマを始めて、少しずつ「青島イズム」を注入されていく。そういうドラマだったなら、新たなる「踊る大捜査線」の世界を見据えることができるのではないか。そうすれば、映画を愛する余り「踊る」をぶったたく人々との軋轢もなくなり、ぼくも心おきなく、ブログの中で、清々しく広言できるはずなのだ。

 「踊る大捜査線」が大好きです!と。


 結論としてはボクが次回作で望むのは「THE MOVIE 4」ではなく、本来の原点に返った、『踊る大捜査線2」なのです。
 亀P。奴らを映画の世界から解放せよ!(★★☆)

*1:この辺の説明がされてないので室井さんなんで現場に出さないんだ、と怒る人もいるわけだが