虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「20世紀少年 最終章/ぼくらの旗」

toshi202009-09-08


監督:堤幸彦
原作:浦沢直樹
脚本:長崎尚志浦沢直樹


 はじめに断っておくと。映画の評価とはあまり関係のない文章になるかもしれない。


 浦沢直樹は謎の中心に「空洞」を作り、そこを巡る人のドラマを作ることに長けた作家である。大抵、ミステリーというものはそこを描くのが目的であるのだけれど、浦沢直樹の場合、「空洞」の中身以上にそとのドラマをきちんと作り込むことで、空洞に説得力を持たせようとする。
 「MONSTER」はある程度、空洞の中身についてある程度決まった形で進めていたと思うのだけれど、「20世紀少年」に関しては、「自分たちがかつて描いたたわいもない空想」を現実化していく「誰か」がいて、そいつは自分の同級生の誰かである。その「誰か」とは誰?という現在進行形のフーダニットで物語が進んでいくわけだが、その「誰か」自体がまったく想定せぬまま進んでいたと思う。


 無論、ある程度「容疑者」を設定しながら進んでいたわけだけど、その「誰か」の怪物性の具現化である「ともだち」は、その「誰か」を示さぬまま、世界をどんどんリライトしはじめる。いつの間にか、誰が犯人かは問題ではなく、その「怪物」がセカイをどんどん塗り替えていく恐怖を、描いているのが「カンナ」や「オッチョ」、「小泉響子」の視点で描いた中盤である。
 そして終盤で、「ケンヂ」と「誰か」の物語へと移行していくのだが、作者の中で想定外だったのは、「ともだち」の悪意はもはや「誰が犯人か」などということを超越してしまったことだと思う。


 その「空洞」の中にあるものは「誰か」の悪意から、「作者」の悪意へと変貌を遂げているからだった。作者が智恵をしぼって「どうやって世界を小学生の妄想通りのセカイにするか」と考えているうちに、その犯人のリアリティは完全に霧消する。しかし、「同級生の誰か」が「ともだち」という設定は残るのである。
 原作は「ともだち」の正体という、本来の核心へと向かうのだが、その頃には世界はおどろくほど幼稚な世界に変貌を遂げている。それはまともなオトナがどうこうい言うような世界ではない。もはやハリボテすぎて「世界」の体を為していない。原作は一応の「真実」を示すのだが、それがこれほどの「悪夢」の出所かと言われると、ムズカシイのではないかと思う。


 さて。「最終章」で改めて浦沢直樹は、自作との対峙を迫られる。



 浦沢直樹が知ったこと。それは「ともだち」という存在以前に、自分が、「俺」が、俺の分身でもある「ともだち」が、作り出したセカイの空虚さだったはずである。
 暴走と迷走の果てに、なんとか完結に導いた物語は、誰が犯人か、などという状態を越えてしまっていた。


 「最終章」で描かれるのは、原作にはないラストへと向かう。それは、「ともだち」の現実世界への帰還である。



 20世紀少年はそもそもが「バッドエンド」なのである。「誰か」の悪意から始まった物語を、そのまま引き継いだのは「浦沢直樹」自身だった。映画の中の「ケンヂ」は原作以上に作者とのかぶりがすごいのだが、それもそのはず、である。浦沢直樹は、「ともだち」である自分と対峙させるには、もうひとりの自分としての「ケンヂ」を対峙させるほかない、と思ったはずである。
 「ともだち」はとっくに行き止まりにいる。「最終章」で繰り返し言われる。
 「ともだちはせかいをせいふくした。せかいをほろぼす以外にやることがない。」
 「最終章」で繰り返し出てくるこのフレーズなのだが、そもそも何故「世界を滅ぼ」さねばならぬのか。世界はとっくにリライトされている。もはやこれがともだちの望む世界が誕生したのではないか。しかし、そうではないという。


 この映画で「ともだち」の正体が「彼」一本に統一されたことで印象が変わったシーンがある。それは「カンナ」と「ともだち」が対峙するシーンである。世界を滅ぼす「ゴジラ」となったケンヂの姉「キリコ」はかつて彼の愛した人であり、そして「カンナ」は愛した人との間に出来た子供である。
 原作では最初の「ともだち」とはちがう、別の「ともだち」が世界をリライトし続けている、という話だったが、本作では「ともだち」はただ一人である。よって、真にあのシーンは「親子」の再会である。だが、ともだちはカンナに「絶交」を告げる。


 もはや、彼はカンナへの執着はもはやない。どうでもいいのである。この、なんとも言えぬ、絶望感。


 「世界を自分で書き換え、自分で壊す」。これはどういうことかというと、すべてを巻き込んだ「自殺」である。ともだちの世界への憎悪は「世界」とともに死ぬことだ。あの日、あの時。「最高で、最低の、あの時代」へと世界を戻した上で、すべてを壊して死ぬ。そして同時に、それを止めてくれる「ケンヂ」を、「ともだち」はずっと待っている。
 「ケンヂ」は戻ってきた。迷走の果てから、物語を完結するために。それは何度もこころ折れそうになりながら、物語を完結へ導いた作者の心の道程をたどった姿だからだと思う。


 浦沢直樹にとって原作の終わり方は、実は当初の目論見に近いモノだという。しかし、終わり間際にあれほど混乱を来しているのは、連載漫画の中で、いくつもの変遷を経て、物語が常に変容していって、その結末と合わない箇所が頻出する、ということでもある。
 だから、映画の「20世紀少年」は、ある意味浦沢直樹にとって、「整理された20世紀少年」ということになるんだと思う。


 ところが、その浦沢手法を映画に置き換えたときに、そこに肉体のぶつかりがまるで存在しなくなる。


 浦沢直樹の演出整理は、「暴力」を執拗に描くようなことを好まない。彼の物語の推進力は、「心理の奥底」に潜む恐怖であったりするわけで、暴力描写は必要最小限に、効果的に描かれることはあっても、その暴力性を持続することはない。暴力とその結果を描くことはあっても、それは瞬間的な省略をもって決着する。
 本来ならば。ケンヂはともだちをぶん殴らなきゃならない。謝るのではなく、「ぶん殴って」止めるべきなのだ。ところが、そうはならない。ともだちがそうは望んでいないからだ。しかしそれは、ともだちの都合であって、ケンヂの都合ではない。ケンヂの心理から言えば、彼の心理など知ったことではないからである。だが、ケンヂはなぜかともだちと、その都合を共有している。


 そこには作者の仲立ちが入っている。つまりどちらも作者の分身という側面があるがゆえにそこを共有しちまってるのだ。


 哀しいことに、彼はセカイをセイフクすればするほど、自分が望むものから遠ざかっていることを知らない。
 子供時代の空想を叶えれば、そして「最高で、最低の、時代」(ただし万博は除く)もろとも壊すことでしか、自分を肯定できない。
 そして、ともだちは「計画どおり」、「神」になる。それは、作者との「魂の融合」である。ゆえに、そこから先はもはや作者の悪意が一気に放出されていく。


 彼に決定的に足りなかったのは、その暴走を止めてくれる誰かだったのだ。浦沢直樹の作ったこの長い長い物語が「永遠に」決着しないのはそのためだ。ケンヂはその「ともだち」ではなかったのである。


 故に、「ともだち」はいつわりのセカイでの「現実」の中でしか、救われることはない。トモダチはそこで平穏な現実を「幻の中」で享受する。


 どちらが、妄想で、どちらが現実か。判然とはしない。

 しかし、それじゃあ駄目なのだ。だから、この物語は、映画として駄目なのだ。セカイ系じゃあるまいし、妄想だろうが、現実だろうが、セカイの落とし前はつけなきゃならない。浦沢直樹はそこから逃げてしまっている。歌って終わるわけ、ないだろう!幻の中で、「鉄人兵団」みたいな決着をつけたって誰も救われない!
 理不尽でもなんでも、怪物が作り出した極端なセカイは、大きな揺り戻しで戻さねばならない。たとえ、暴力の波が世界を覆おうとも。浦沢直樹にその覚悟がない。ともだちという「だだっ子」を「修正」する人間がいて、はじめて、物語は完結するはずではないか。


 世界は動いている。そして、世界をここまで変えたのが「ともだち」なら、もはや「思い出」など知ったことではない。「ともだち」は人類とガチンコの戦争をして死ぬべきなのだ。しかし、その覚悟が浦沢直樹にはない。なぜか。それは、浦沢直樹もまた「ともだち」だから、だ。
 暴力で、ていうか、自分の「作り上げた」世界が、自分とはあずかり知らぬ「勢力」によって壊されるのを恐れているのは、他ならぬ「浦沢直樹」自身なのだ。


 この物語はたしかに、過去の記憶から、すべてが始まっているかもしれない。しかし、「浦沢直樹」は世界と対峙するのをやめてしまった。このセカイの「中心人物である」ともだちとケンヂが、「現在」の世界の結果を引き受けて殴り合えば良かったのだ。であればこそ、ラスト10分の幻も、より哀しく美しく輝いたはずなのに。
 ゆえに物語は永遠に決着せず、「遊びの時間」が始まるまえの幻が、永遠に続く話になってしまったのだ。3部作かけて描いたセカイが幻。これほど観客に徒労感の残す決着もあるまいよ。(★★)


追記:
堤幸彦への不満点は、第1章から変化がないので言及なし。この作品における堤幸彦の役割は、個人的にはともだちにとっての「万丈目胤舟」みたいなイメージ。
「第1章 終わりのはじまり」感想
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20080830#p1