虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「トイ・ストーリー3」は望まれた物語か。

toshi202010-07-30




 「トイ・ストーリー3」を見た。感想も書いた。「傑作。大変素晴らしい映画である。」とする内容の感想である。


トイ・ストーリー3」感想
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20100725#p1


 しかし。それからしばらくしても、僕の中にはある「もやもや」がついぞ離れずにあった。僕は、この映画を見て、絶賛する人々に一様に投げかけたい「問い」がある。しかし、それを口にすることはついぞためらわれた。
 映画を見て、それが素晴らしい映画であり、その内容にいたく感動したのなら、素直に賞賛するべきである。そう信じて映画感想を書き続けてきた私だ。感想を書く際も、そのことを疑ったことはない。しかし。この映画を見て自分が感想をふっと読み返したときに、僕は自分が本来言いたいことを濁しながら書いていることに気付く。
 僕は。「トイ・ストーリー3」に対して、ある思いがある。しかし、そのことを僕は書けずにいた。信頼する映画評論家、映画ブロガーがこぞって絶賛し、IMDBは常に高得点を維持していて、なおかつ自分も映画館で嗚咽した映画に対して、僕は見終わった後に、ふっとこう思ったのである。


 トイ・ストーリー3」は作られるべきではなかったのではないか。


 何故。何故。こんなことを思ってしまったのだろうか。心の底から傑作だと思ったのは、私の偽らざる本音である。しかし、同時に僕は「こんな映画、作られなければよかったのに」と思ってしまった。
 罪深いことである。なんという、愚かな考えか。
 しかし、僕がこう思ったことには根拠がある。それは、僕が「トイ・ストーリー」シリーズを2作とも映画館で見ている、幸福なファンであるが、僕が映画館で見た後、僕の精神は常に昂揚している。まさに幸せの絶頂である。しかし、本作では、どんよりとした気持ちで家路についた。


 昂揚しなかった理由はわかりきったことである。ウッディがアンディに対して、行った「決断」とそれによって導き出された結末からきている。この結末は、「トイ・ストーリー」という物語の終焉を意味している。アンディという「ニンゲン」があらばこそ、この「トイ・ストーリー」という物語は成立している。虚実定かならぬところに、ウッディたちおもちゃの人生がある。おもちゃとニンゲンは決して交流してはならぬ。その「公然の掟」の中にある物語。
 だからこそ、「アンディ」はウッディたちの「人生」が「あり得る」セカイの、まさに中心軸にいるべき存在である。「3」ではその中心人物との決別が描かれてしまう。


 しかし。この「決別」を誰が望んだろうか。望まない。でも、描かなくてはならない。なぜなら「アンディ」が成長した未来を描いたことによる、物語的には「当然」の帰結だからある。しかし。それでも思う。「何故?」と。


 「何故そんな未来を描かなければならない?」


 僕は言いたい。そんな未来は見たくはなかったのである。
 「3」を見終わった後、僕にはひとつの言葉があった。「理不尽」。あまりにも「理不尽」ではないか、と思った。こんな「決別」など知りたくはなかったという思いである。


 「わがまま言うな」と言われればその通りだ。受け手がいまさらどうこう言っても始まらない。「3」は作られてしまったし、なによりも「作り手」の側が出した結論なのだ。それを受け入れるしかない。


 だけど。この「結末」は僕には余計なことである、と思われた。
 「蛇足」なのではないか。あまりにも美しくキレイで、それ単体としては美しい「足」。しかし、それは「ヘビ」に描かれた「足」だったのではないか。「アンディといつか別れなくてはいけない」問題は、「2」ですでに言及されていて、今回はそれを「物語」全体で描いて見せたわけだけど、それは同時に、「1」「2」が抱えていた「アンディ=僕ら」という公式を崩してしまった気がするのである。

 アンディは僕ら自身だったのだ。だからこそ、僕ら「トイ・ストーリー」ファンはアンディ同様にウッディたちを愛してきた。しかし、アンディのその後と、おもちゃたちとの決別を描いた物語は非常に野暮天ではないか、と思いもする。


 アンディはこの物語において、僕ら自身を仮託する存在だが、「3」のアンディは一個人としてきちんとした人生を「決定」している。つまり、ぼくらが仮託するのに重要だった「子供」が持つ「未来への多様性」を奪ってしまった。
 「アンディ」が子供だったからこそ、「アンディ」は「すでにオトナである我々」の「過去」になり得た。しかし成長した彼は、もはや「アンディ」という個人であり、彼自身の「人生」を生きている。


 どういうことかと言えば。ウッディたちはもはや「アンディだけのおもちゃ」であり、「僕らのおもちゃ」ではなくなってしまった。「1」「2」でウッディを愛し、「1」では次々とウッディを見放すおもちゃたちを尻目にひとりウッディを信じ続けたポー・ピープ、「2」でウッディがおもちゃコレクターにさらわれるきっかけとなり、エンディングで「ぼくはともだち」を気持ちよく歌い上げたウィージーなどのおもちゃたちも、未来ではとっくに手放していることも、「3」が作られたことで「決定事項」となってしまった。
 しかし、ぼくらファンはそんな「未来」を知りたかったか。想像することはできた。でもそれは、作り手が「決定」するべきだったろうか。そしてその決定はファンを幸せにしたか。


 元々、「トイ・ストーリー3」はディズニーのマイケル・アイズナーが、ピクサーとの契約が切れて製作する権利を持っていたことをいいことに、続編をピクサーではなく、ディズニーのCG部門に作らせようとしたのが企画の始まりであった。
 それがピクサーがディズニーの子会社になる代わりに、ディズニー経営陣が刷新され、ジョン・ラセターがディズニーの重役になったことで、「トイストーリー3」という「企画」はピクサーの手に戻り、製作されるに至ったわけだが、「話」ありきで始まったわけではなく、むしろアイズナーが行ったような横暴を繰り返さないために作られたというのが、製作された経緯でもある
 そんな流れで、「トイストーリー3」という映画は、生まれた。そして、映画が素晴らしい出来映えであることは、見れば解ることである。


 しかし、それは「作り手」であるピクサー、「受け手」であるファン双方から心から望まれた「続編」であったろうか。「作らない」という選択肢はなかったか。「1」と「2」でも十分に完成されたシリーズだったはずである。
 今回の映画が傑作たり得たのは、ウッディたちとアンディの「決別」を描いた「潔さ」にあるとも言えるが、しかし、「3」が出来てしまったことによる「多様性」が失われてしまったことは指摘されるべきなのではないか。


 アンディが「子供」であり続けていたからこそ、維持されていた「様々な未来」を想像する「幸福」を僕らファンは失ってしまったことを、映画を見終えて僕は心の底で気付いてしまったのである。ゆえに、「トイ・ストーリー3」の存在は、映画として作品として、これほど素晴らしい成果を上げながら、ぼくの中ではいまだ複雑な思いを消せないでいるのである。