虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ヒューゴと不思議な発明」

toshi202012-03-04

原題:Hugo
監督:マーティン・スコセッシ
原作:ブライアン・セルズニックユゴーの不思議な発明」
脚本:ジョン・ローガン


「『お国のために』 なんか死ぬな。君も書いているじゃないか。死んでいいのは『おにくのため』だけだって。」
「気に入ってくれてたんですね、その台詞。」
「大好きなんだ!」
三谷幸喜・作「笑の大学」より)


 映画を見ていて思う。映画にしろ、ドラマにしろ、アニメにしろ。作り続けていると、その人の「手つき」が映画そのものに見えてしまうことがある。それはある意味、どうしようもないことだ。その人の演出のテンポ、倫理観、人間観、趣味嗜好、世界の捉え方。そういうものが時を経るゴトに固まっていく。そして、ひとつの「作家性」として捉えられていくわけだけど。
 作家もその自分の周りに、その「作家性」という名の「殻」が出来上がっていくことを知っていると思うし、そこに「閉塞」を感じてもいるだろう。その時に、作家はその殻から脱しようとするとき、どこへ向かうのか。


 それは自分が最初に立っていた場所だ。ジャンルへの限りない愛、そしてそれと戯れる純粋な悦びだ。


 冒頭シーン。俯瞰でパリの遠景を映し出しつつ、作り込まれた「箱庭世界」をカメラがパリのリヨン駅へと向かい、カメラが多くの人が行き交う駅舎の中を突っ切っていくオープニングからして、スコセッシ監督の無邪気なまでの「3D映画楽しいなあー」という悦びが溢れている。
 楽しい。映画が作るのは楽しい。ほんとに楽しい。ただ、無邪気にそして本気で。3D映画というツールと戯れている。


 この映画は、「作家性」という殻の中で映画監督を判断するならば、「スコセッシ監督らしからぬ」映画である。それでもなお。この映画はスコセッシ監督の映画であることは、見る者すべてがわかる。
 三谷幸喜は自らの殻を破るために、夭折の喜劇作家・菊谷栄をモデルに戯曲「笑の大学」を書き、ジャンルと向き合う「悦び」を作品の中に叩きつけてみせた。宮崎駿は「崖の上のポニョ」で「アニメの初源に立ち返る」と宣言して、「手描きアニメ」を作る悦びを自らの殻を破る原動力にしようとした。
 スコセッシ監督はどうしたか。3D映画という「新しいツール」によって「映画」という表現の可能性を広げる「悦び」に向き合いつつ、その表現を使って一人の孤独な少年が父が遺した機械人形をきっかけに、「映画を作る悦び」の「初源」を「発見」する物語を描き出す。


 この映画はスコセッシ監督の「映画というジャンルへのラブレター」である、とする評を多く見かけ、それは多分間違いではないのだが、もっと言えばスコセッシ監督が「映画」と「出会い直す」物語でもあるだろう。
 序盤で孤独な少年ヒューゴが、何故駅で暮らすようになり、機械人形を直すことに執着しているか、という描写に時間を割いたのか。それは多分、スコセッシ監督自身が「少年」の目線で、機械人形が抱える「秘密」を解き明かすことで、老人がかつて持っていた「映画を作り出す純粋なまでの悦び」を「発見」しなければならなかったのではないか。


 3Dという最新のツールで描かれる、サイレントの娯楽映画の揺籃期の製作現場の再現映像は、旧き表現を新しい表現で「再生」させることで、その「過去」の感動が「現在」のものとしてスクリーンに映し出す、という意味において大変有効で、素晴らしかった。
 その「発見」が「人生がハッピーエンドなのは映画の中だけ」と世をすねていた老人の生涯に光を与え、先の見えない孤独におびえていた少年の未来に、光をもたらす。


 そして、この映画は、「映画を作る悦び」を再発見したことで、「映画監督」マーティン・スコセッシがみずからの殻を破り、新たなステージに立ったことを、観客に印象づける映画となったと思うのです。(★★★★)