虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「思い出のマーニー」

toshi202014-07-21

監督:米林宏昌
脚本:丹羽圭子/安藤雅司/米林宏昌


 その日、ある田舎町で行われている「七夕まつり」の中で。


 普段おとなしいだけに見えた少女の声が暗く沈む。瞬間的に爆発する暗くて重い感情。「これは私の声?この感情はなに?」それが一瞬わからなくて戸惑う。その戸惑いとは関係なく動く口から吐き出されるのは、目の前にいる少女に向かって投げつける、幼くてそして汚い呪詛の言葉。まぎれもなくその声は、「少女の心の中」に眠っていた、「世界」に向けた「叫び」だった。
 相手の少女は、一瞬「むっ」としながらも、こころを立て直し、聞かなかったことにしようとする。オトナな対応。それが、彼女には耐えられない。私が、私だけが、幼く、醜くて、不機嫌で、独り。それをまざまざと突きつけられた気がして、彼女は相手の差し出した手を振り払う。相手の少女の手から、彼女の書いた短冊がはらはらと落ちる。
 少女は普通になりたかった。普通になりたいだけ。七夕の短冊にもそう書いた。でも私は「普通」じゃない。そんな、世の中を呪うしかない私の願いを聞き届けるものなど、いるわけがない。あまりに、暗くて寒くて寂しくて、嗚咽が止まらない。誰か、ここから・・・・!
 そんな彼女の願いが誰かに届き、彼女は「そこ」ではない場所に導かれる。入り江にある湿っ地屋敷。彼女はそこで美しい金髪の長い髪の少女と出会う。


 ボクはこの映画のこの一連のシーンに心捕まれたのだが、それは誰しもそうとは限らない。ここが多分、この映画を、いやさこの映画の主人公・佐々木杏奈を好きになれるかなれないかの分岐点になる気がしている。


 親をなくして、幼くして叔母の家に引き取られた杏奈は喘息の療養のため、札幌から、道内の田舎町にある親戚の家を訪れていた。おとなしくて、礼儀正しくて、絵が好き。大岩夫妻は気に入り、彼女に優しく接するし、彼女もスケッチなどをしておとなしく過ごしていたが、田舎町の中にも人間関係はあって、彼女はその中で彼女は心の中に貯めていたものをはき出してしまう。
 それがきっかけで、彼女は金髪の少女・マーニーと出会うことになる。



 杏奈という少女は、世の中と渡り合うための唯一の方法が、「おとなしく、礼儀ただしく、相手と距離を取って、自分を殺して見せない。」ということ。彼女は自分を「魔法の輪の外側の人間」と言う。世の中には目に見えない輪があって、誰とでも仲良くコミュニケーションして騒げる人間は「内側の人間」、そうでない人間は「外側の人間」としている。
 彼女は、そんな自分が心底嫌いなのである。彼女が不機嫌な理由は、多かれ少なかれ、「自分」についてなのである。そういう杏奈の、人として「嫌な部分」を丁寧に描いているだけに、この映画は「誰もが共感できるジブリ映画」とは言えない部分があるかもしれないと、ボクは感じている。



 さて、不機嫌な少女、ということでジブリ作品では「千と千尋の神隠し」の荻野千尋が思い出される。


 宮崎駿の作品の中でも屈指の傑作だと、ボクは思っていていくつか理由があるのだが、主人公の荻野千尋がそれまでの宮崎作品のヒロインで顕著だった「俺(宮崎駿)が考える理想の女性像」の具現化だったヒロインではなく、不機嫌で礼儀しらずで身勝手で、身体能力も並以下な少女であったことである。それが、湯屋での生活の中で少しずつ、彼女の中にある「可能性」(宮崎ヒロイン化)が覚醒していく、という物語展開のカタルシスとしては見事ではあった。


 しかし、だれもが「宮崎ヒロイン」になれるわけではない。世界の輪から遠く離れて、明かりのない河川敷から、遠く見える街の明かりを見ているような、そんな心象風景の少女もいる。それは宮崎駿が決してすくい取れなかった存在だと思う。
 そして、この作品で「千と千尋の神隠し」以来、久々にスタジオジブリ作品に復帰した人物がいる。脚本と作画監督に携わった安藤雅司氏である。


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 彼は「千と千尋の神隠し」で宮崎駿と決別して以後、「東京ゴッドファーザーズ」「パプリカ」で今敏監督の右腕として活躍した後、沖浦啓之監督の「ももへの手紙」に作画監督として関わっている。
 「ももへの手紙」もまた、父親を亡くして、都会から田舎へ引っ越してくる少女の物語である。ももは、杏奈ほどの「孤独」を感じてはいないものの、父親が事故で死ぬ日の朝に掛けてしまった彼女の心ない一言が、心の傷となって残っている少女の話であり、彼女の心の傷にさしのべられた、異界からの手の話でもある。


 杏奈が出会う、「空想の具現化」でもあるマーニーもまた、「宮崎ヒロインになれない少女」にさしのべられた異界からの手である。


 マーニーと杏奈が出会えるのは月の力が強い「満潮」の時だけ。その時だけふたりはふれあえる。出会ってすぐに惹かれあい、そして、楽しい時を過ごす杏奈とマーニー。彼女とのふれあいは、頑なだった杏奈の心を溶かしていくのだが、ある場所での諍いを機に、ふたりは離れてしまう。
 友情を裏切られた思いを抱え、不機嫌な少女に戻った杏奈だったが、マーニーの心からの謝罪に、大粒の涙とともに許すことを覚えることで彼女の中にあった「世界への呪詛」は消えていく。


 終盤は、マーニーという存在がどこから来て、どこへ行ったのか。その顛末が語られることになる。


 杏奈とマーニーの存在を、ふたりの身体の触れあいとともに描いて見せたことで、この映画はより「不思議」なリアルを持つ。
 手こぎボートの手ほどき。月の入り江でふたりで、ダンス。出会うたびに抱きしめてくるマーニーのぬくもり。
 幻だと思われたけれど、杏奈の「身体」がたしかに覚えている。マーニーという存在を。そして身体に残った「マーニー」との記憶こそが、杏奈の中にあった「呪い」を溶かし、「マーニー」が何者なのかを知っていくうちに、彼女は「魔法の輪の内側」へと一歩一歩踏み出していく。


 七夕の短冊に「普通」に過ごしたいと願う。そんな少女の願いをかなえるためにマーニーは月の力に導かれ、異界の扉を開けるのだ。


 さて、文頭で書いた場面で、相手の少女の手をはじき飛ばし、杏奈の短冊ははらはらと落ちる。その短冊はどうなったのだろうか。多分、杏奈から面罵された「魔法の輪の内側」にいる相手の少女が、周りに居た少女達の手前、笹につけたのではないかと思う。
 そんなオトナな対応が出来る相手の少女も、杏奈の悪口の意趣返しに、事の顛末を「話を盛って」母親に話して、母親が大岩夫妻のところへ乗り込んでくる場面がある。「魔法の輪の内側」にいる人間だって、色々感じながら生きているし、嘘もつく。それを知って、杏奈は傷つくのではなく、ちょっとほっとしているのではないか、とボクは思ったりした。


 そういう「ヒロインらしからぬ」少女たちの繊細な心の機微をここまで丁寧に描くことの出来る監督は、米林宏昌監督がスタジオジブリでは初めてな気がする。
 そのちょっと内向的な繊細さが、どこまで多くの人に受け入れられるかはわからない。ただ、「借りぐらしのアリエッティ」では残しきれなかった爪痕を、米林監督は本作でがっちりと刻み込んでみせた。そんな気がするのであります。大好き。(★★★★)