虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「パシフィック・リム」

toshi202013-08-22

原題:Pacific Rim
監督:ギレルモ・デル・トロ
原案:トラビス・ビーチャム
脚本:トラビス・ビーチャム/ギレルモ・デル・トロ



「何の恐れもない夜! 我々は手に入れたのだ。今度こそ美しい夜を!それは幻ではない。」(「ジャイアント・ロボ/地球が静止する日」より)



 かいじゅうがまちをおそってくるので巨だいろぼっとでたおすえいが。である。


 で、あるのだが。正直な感想を言うと。


 怖い映画である。


 3回見たんだけど、見るたびに「もやもや」とした気分が残る映画で、不思議な感じがする。実はどの登場人物にも共感はしなくて、ちょっと醒めた感じで見ている自分もいて、この辺は不思議である。Twitterのタイムラインで盛り上がりを横目に見ながら、素直に燃焼しきれないものがあったのは事実で、そのことについてぼんやりと考えてみる時に、この映画の根っこはあくまでも「オリエンタリズム」の集合体の映画なのだと気づく。
 そうやって見て、やっと腑に落ちてくるのは、如何に「偏愛する「異国」のジャンル全部入り」というコンセプトが先にあり、それを如何にして全部出しながら、「一個の世界観としての実写娯楽映画」として成立させている、という豪腕映画なのだよね。


 デル・トロ監督がすごいのは、いったん好きなものを腹の中に入れて、飲み込みながら、個々の要素を殺さずになおかつ、一個の世界観として違和感ないように作っていることで、この用意周到さというか、言ってみればこの執着の度合いが、常軌を逸しているようにも思う。「妄執」ともいうべきレベル。普通じゃない。
 たとえば「キル・ビル」でタランティーノが見せた「日本映画」への愛はものすごく素朴で無邪気だ。そのために映画自体がいびつになったとしても、それならそれでも構わない、という思い切りの良さがある。だから逆にドスーンと心に響くのだが、デル・トロの場合、その素朴さはない。偏愛するジャンル映画を完全に「自分の世界」へと引き込んでしまっているからだと思う。


 その結果、何が生まれたか、というと、この映画のジャンルは「怪獣映画」でも「ロボット映画」でもなくて、「パシフィック・リム」というジャンルの映画になってしまったのではないかと。


 この映画の構造自体はものすごく「シンプル」であるにも関わらず、「そこへと至る過程」について思い至る時に、そこにあるのは「歪みなき歪み」とも言うべき、ギレルモ・デル・トロという個人の「歪なる世界」だ。「ハリウッド」という土壌で戦う「メキシコ生まれ」の監督が、こんな映画を撮る理由なんて本来ない。にも関わらず、ここまで高次元に自らの思う、「偏愛するジャンル」をぶち込んで、娯楽映画として成立させてしまったことは、やはり「異常」なのだと思う。


 そこに思い至る時、この映画は「kaiju」よりも巨大で怖い、ギレルモ・デル・トロという、「天才」の凄みがある。その凄みを裂け目の向こうに隠して。
 彼が生み出した世界で繰り広げられる「美しき夜の怪獣との戦闘」。しかし、そんなシンプルな映画を、シンプルに見ることができない。楽しむ前に、心の奥底で、デル・トロ監督の底知れなさに震えるしかない。彼が偏愛するジャンルの生まれた地にいる、日本人にとっては、「kaijuににらまれた芦田愛菜」になるしかない。異国の天才だからこそ作ることができる、日本人には手の届くことのない、高みへと至っている。怖い映画である。(★★★★)



 デル・トロの「天才」に対抗できるのは、今川泰宏監督しかいないと思うので、「ジャイアント・ロボ」続編製作を!