虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「L change the WorLd」

toshi202008-02-09

監督:中田秀夫
脚本:小林弘利/藤井清美



 映画版「デスノート」のスピンアウト企画。
 まず誉めておこう。悪役の一味に、佐藤めぐみを配した人。エラすぎ。彼女の一挙手一投足が面白すぎる。シリアスな場面ですら爆笑を誘う彼女の演技は、かなりすごかった。彼女が一番の収穫。
 あともうひとつ。この映画のオチで明かされる、少年の設定に腐女子は満足なのか是非聞いてみたい。俺が腐なデスノファンなら絶対認めないけどな。


 さて。


 書き出したら辟易するほどたくさんあった細かい突っ込みどころ*1は、あえて端折る、という前置きしてから書くのだが
 この映画は、Lという人物がどういう人物か、というのを考えてみれば映画ではさして触れてなかったことから端を発しているわけだが。それならば、ワタリという人物がどのような人間か、という前提がまず描かれなければならないのだが、この映画はいきなり「原作読め」とばかりにいきなり「ワイミーズハウス」を前提とした物語、はっきり言えば内輪もめ以前の馬鹿騒ぎにしてしまったのが、この映画のそもそもの間違いだった気がする。それがこの映画の目論見をより、伝わりづらいものにしていると思うのだ。


 この映画で鍵を握るのが工藤夕貴演じる久條希実子なる人物である。
 この映画の肝である彼女のメンタリティが、実のところよくわからない。これほど重要な役割でありながら、彼女の根本的な背景をまるで感じさせない。高島政伸演じる的場という男の場合「自分が一番賢いと思っている木偶の坊」というわかりやすさがあるのだが、あくまでも「敵」の主体は彼女なんだよな。彼女はもともとLと同じ、ワタリと深いつながりのある人物なのだが、そんな人物が何故、これほどわかりやすい単純で愚鈍な「エコ思想」に至ったのか。この辺の背景がまるで描かれないどころか、まるで元から狂人だったかのような描かれ方をしている。
 まあ、工藤夕貴の演技がかなり酷い*2のでその辺のニュアンスが伝わりづらくなってるのかもしれないが、それにしたってその辺の複雑さを匂わせながら放棄しているように見えるのは、中田監督の最大のミステイクだろう。
 彼女が「L」にとって重要な存在であることは、飛行機内でのやりとりを見ても明らかなのだが、俺には最後まで「L」が感じたであろう「何か」を彼女の中に見いだせなくて、その辺が非常にしこりとなっていたのだが。


 ふと考えるならば、この映画はLが頭の中だけで把握してきた「世界」に「ワタリなし」でほっぽり出した場合、どうなるのか、という話なのではないか、と(まあ、その段取りが甘すぎる脚本がこの映画の駄目なところなのだが)。
 デスノートは「確率と先読み」からの化かし合いだったが、それはワタリという庇護者がいてこそ、成立した部分がある。あえて「Lの天才ゆえの無能」の部分を晒してでも、ワタリなしの世界を歩かせることで、庇護者なしで世界にほっぽり出されたワイミーズハウス出身者でもある「久條希実子」の「頭で世界を把握する」愚かさに対する哀れみを向けることが出来たのではないか、などとも思ったりする。


 しかし・・・まあそれにしても、この映画自体は酷いもんでしたけどね。ただ、メチャクチャではあっても、なんだかんだで自転車を漕ぎながら東京を徘徊するL、平泉成にはたかれ続けて抵抗できないLの画は、それなりに微笑ましいものであったような気もするのです。(★+★)

*1:どんくらいかというとこの文章の2倍以上の分量・・・。(追記)こんな感じ(リンク先ネタバレです)

*2:彼女、日本語下手になってない?日系アメリカ人みたいな日本語演技。