虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「母べえ」

toshi202008-02-04

監督:山田洋次
脚本:山田洋次平松恵美子
原作:野上照代


 野上照代の自伝的小説を山田洋次が映画化する。舞台は太平洋戦争に突入する時代の、母と子の物語。題材としてはありがちだよねー、などと、高を括って・・・いたつもりはなかったんだけど・・・これは、ちょっとやられた。



 野上家ではドイツ文学者の父親を「父べえ」、母親を「母べえ」、長女の初子を「初べえ」、次女の照代を「照べえ」という、フレンドリーな呼び名で呼び合う。だが、「反戦」という思想を持っていた父親は治安維持法違反の罪で特高により逮捕され、野上家は父親の帰りを待つ生活を続けることになるのだが・・・・。

 この映画の眼目は、父親を待つ一家の日常を通して、現代とのギャップを強調して描きながら、と同時に、戦争が奪っていってしまうものを描いていることなのだが。この映画の白眉は、家族の細やかなドラマに費やしたことにある。
 登場人物も個性豊かであり、この辺は長年時代劇にリアルな生活感という鮮やかなリアリズムを導入した作家性と、「男はつらいよ」などのコメディを撮り続けてきた作家性が、うまい具合にブレンドされ、、その日常の中にあるメンタリティの、現代とのズレを笑いに転化するユーモアが冴え渡っている。
 なにより、この映画におおっぴらな悪人は出てこない。特高の人間ですら妙に愛嬌がある。彼らは家族にとっては「敵」にも似た存在だが、時代の要求によって、それを行っているにすぎない。隣組のおじさんだって、心から親切な人だが、そのおじさんは無邪気に「米英との戦争」に突入したことを喜んでいる。家に来たと思ったら嫌みを言う「母べえ」の父親だって、自分の立場との板挟みの中で娘に接している、という描写を入れることを、山田洋次は忘れない。その細やかな描写が後に生きる。
 キャスティングも見事で、特に下品でがめついけど愛嬌のある「変人の奈良のおじさん」役の笑福亭鶴瓶は見事なはまりぶりで肩の力の抜けた妙演、「父べえ」の教え子で姉妹に慕われる、山ちゃん役の浅野忠信も近年まれに見る名演。吉永小百合も、60代で30代の女性を演じているのはどうなのか、ということで賛否あるのだが、考えてみれば今の30代の女優に「堪え忍ぶ母」という役柄は逆に嘘くさくなるだろう、と思わせるだけの力演だと思った。照べえ役の佐藤未来ちゃんも鬼可愛いし。


 そして、ホームドラマとしての完成度故に、悲劇への転換が鋭さを増す。凄腕の侍に斬られたかのような、無駄のない少ない動きで山田洋次は悲劇という斬撃を観客に放つ。斬られた瞬間は痛みを感じずに一拍間を置いてようやく斬られたと認識する、というような具合。気がつけば、その痛みに思わず「ふおおおお・・・」と声を上げるほどのタイミングで。
 なんでなんでなんで。あまりにもあまりにも唐突に、あっさりと。それは訪れる。
 戦争とはなにか。それは日常の中にすら、常に悲劇に転化する可能性があることなのだと。この映画はその悲劇をきわめて控えめに、だがあまりに効果的に訪れさせることで、観客の「こころ」に訴える。


 ラストシーンで「母べえ」が娘にそっとささやいた一言は、ずっと数十年心にためていた叫びを吐き出したかのような鋭さで娘を貫く。この映画においての、山田洋次の現代にむけての叫びでもあるのだろう。傑作。(★★★★★)