虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ラブリーボーン」

toshi202010-02-19

原題:The Lovely Bones
監督:ピーター・ジャクソン
原作:アリス・シーボルト
脚本:フラン・ウォルシュフィリッパ・ボウエンピーター・ジャクソン



 実を言うと。この映画をみてしばらく、この映画、ピンとこなかった。僕の、死や生に対する考え方と根本的に異なった話だから、なのだと思う。



 14歳の少女。先輩であこがれの男子とデートの約束を取り付けた帰り道、少女はある男の殺される。少女が死後、彼女は現世と天国の狭間の世界で生きることになる。



 で。先日、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組の、アンコール放送で放映された「わたしは ここに いる」の回を見た。その日のゲストは東京大学先端科学技術研究センター教授・福島智先生だった。彼は目が見えない。耳も聞こえない。会話は相手の話を指点字という方法で、相手の話を「聞き」、自分の「声」で答える、という方法で取っている。
 光もなく、音もない。彼を取り巻く宇宙は、闇よりも深い暗さと、恐ろしいほどの静けさの中にある。彼の「世界」との寄る辺は人や物に「触れる」ことだけ。


 言ってみれば彼は、地上にいながらにして、星の光もない宇宙へ放り出されたようなものだ。信じられるのは「ふれあったもの」だけ。想像するだけでも恐ろしい絶対的な孤独の中で、彼は生きてきた。しかし、彼は家族、友人、恋人。さまざまな人との文字通り「ふれあい」とさまざまな尽力の中で、正気を保ち、やがて大学教授になるまでになる。
 光も音もない世界。それはまさに「生と死の狭間」。我々が考え得るもっとも孤独な世界である。




 光。闇。黒。白。濃い。薄い。音。無音。触れる。触れられない。

 僕らには様々な選択肢を組み合わせて生きている。


 それらがすべて奪われること。それこそが「死」であり、「究極の孤独」だ。


 で、そんなことを考えているときにふと、この映画を思い出したのである。
 天国。または死後の世界というのは、ものすごく「人間的な妄想」だな、と思うのは、死してなお、我々は「五感」を持ち得ている、という前提の中にあるからである。
 この映画は、少女の死後も物語が続く。そして「犯人」と「家族」がやがて迎える闘いを描いていくのだけれど、同時に描かれるのは、「死んだ少女」の「現世と天国の狭間」の世界である。


 そこは視覚的、聴覚的、触覚的にも触れられ、彼女が思う「楽しいこと」が詰まった夢のような世界だが、そこに彼女の「現世」に残した「思い」が介入してくる。
 現世でなにかが起きている。家族や憧れの先輩たちは彼女の死を悲しみ、のたうっている。しかし、彼女の方からはなにもできない。天国と現世の狭間は、まさに「孤独な牢獄」のようでもある。


 触れることもできぬ。見ることも聞くこともできない。そんな中で少女が願うのは、犯人から家族を守ること。そして・・・・。


 この映画は決して復讐の物語ではない。その証拠に、この映画は「犯人」の犯罪そのものをつまびらかには描かない。ただ結果としての「死」があるだけである。
 そして生と死の狭間という名の「牢獄」の中でそれでも「わたしは ここに いる」と伝えることだったのかもしれない。と思った。この映画における「死」は「止まった時の牢獄」のようなものであり、底には死によって家族や恋人と隔絶された「絶対的な孤独」がある。


 「死」という「現世」との隔絶は、彼女の思いも届かない。それは長く、哀しい時間を彼女に強いることでもある。この映画が犯人と家族との顛末よりも、彼女が最後に、一人の娘を「触媒」として初恋の人との「ファーストキス」をしてから、天国へと向かう、最後にその、初恋の相手との刹那の「ふれ合い」を胸に現世から永遠に去る、というクライマックスに重きを置いたことにも納得できる。
 無念のうちに死んだ少女の「孤独な魂」を「現世と天国の狭間」という世界観の中で、どうにかつかみ、そして救済をもたらす映画をつくろうと、悪戦苦闘した作品なのだと、私は思えるようになったのでした。(★★★)




生きるって人とつながることだ!

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さとし わかるか

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