虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「聖の青春」

toshi202016-11-02

原作:大崎善生
監督:森義隆
脚本: 向井康介



 東京国際映画祭で見た。


 今年の東京国際映画祭はチケットシステムトラブルが例年以上に酷く、私も色々予定を狂わされた1人であるが、クロージングである本作の席をあっさりと取ることが出来たのもある意味そのおかげかもわからなかった。
 しかしまあ、なにしろ一応、国際映画祭のトリを飾る作品であるということで、主演の松山ケンイチ東出昌大が登壇し、ゲストにオリンピックの金メダリストを呼ぶなど、主催者側としてはなんとか盛り上げようとした雰囲気は感じられた。
 しかし、なにしろ上映前でのイベントだったので、映画上映後だったらもう少し突っ込んだ話も出来るイベントだったろうになあと思ったりもした。ていうか、ちょっと進行がね、今ひとつぱっとしなかったんですよね。段取りも悪かったし。

 そんな中でも、松山ケンイチ東出昌大らキャストからは、強気の言葉が出てくる。この映画に対する思い、自負が感じられる言葉は非常に映画に期待を高まらせるものであった。


 さて。映画本編である。
 本作は夭折した羽生善治が最も恐れた棋士と言われる天才・村山聖のわずか29年を壮烈に生きた生涯を描いているわけである。
 演じる松山ケンイチは本人になりきるために体重を増やし、体型を改造して本作に望んでいるし、羽生善治を演じる東出昌大も羽生独特の空気を見事に表出させている。上映前の会見でキャストと監督含め、かなりの自信を覗かせる発言もうなずける絵づくりがされている作品である。一言で言って力作である。



 で。


 見終わった後の私のTwitterでつぶやいた一言がこうである。

TIFF「聖の青春」。れ・・・・恋愛映画だった。ディープラブ。


何言ってんだ俺。


 見ていて、この映画の眼目を脚色の向井康介氏がどこに向けたのか。一言で言えば、村山聖羽生善治という男の、将棋を通して生まれる「絆」についての物語としたんだと思うのだ。
 この映画で描かれる村山聖は基本的に言えば「気が強いけどシャイな男」である。「将棋」というものはそも、頭が強いだけではダメで勝負の中で「必ず勝つ」という精神力が問われてくる。場が煮詰まって勝負の行方が混沌としてきた時ほど、一手の重みは増してくる。彼はその場が煮詰まってくる場面での見極めが非常に的確なのである。詰むか詰まないか。プロでも悩む局面で彼はにべもなく「詰まない」と答える。そしてそれは当たる。
 村山聖という青年はその精神力に関して言えば並々ならぬものがある。


 広島県出身。幼少期にはネフローゼ症候群という難病にかかり、入院生活を余儀なくされ、そこで覚えたのが将棋である。10歳で将棋教室に通い始め頭角を表すと、中学1年生でプロを目指し始め、大阪の森信雄に弟子入り。17歳でプロ入りを果たす。
 幼い頃から病身ゆえに「生きる」という事に対して貪欲な少年は、師匠に支えられながらその強い精神と負けん気で、「羽生世代」と呼ばれる勢力の一角として、将棋界で名を轟かせるようになる。


 向井庸介氏の脚色は村山聖を「持たざる者」と規定しているように思う。本好き、漫画好きで特に少女漫画のコレクションは3000冊に及ぶ。普通の小学生時代を送れず、将棋だけが彼を肯定してくれる存在であり、ただ貪欲に将棋に没頭しながら、切るにしのびないからと髪と爪を切らず、浮腫の浮いたせいで独特な風貌により「怪童丸」と呼ばれた。食生活は偏り、麻雀や酒を覚え、男に対しては強気で話せるけれども、異性相手だと言葉少なになり、言いたい事も言えなくなってしまう男として描かれる。
 そんな男が天才・羽生善治と出会う事で、彼は東京行きを決意する。


 対する羽生善治は「持ってる」男である。
 端正で知的な顔立ち、実力は日本トップクラス、主要タイトル7冠を総なめにし、常に彼の一挙手一投足にメディアが注目、私生活では女優と結婚するなど、村山が欲しいものはすべて手に入れている男。だが、決してそれに溺れる事無く、愚直に将棋に打ち込む姿勢に誰もが感服する。名声も尊敬も名誉も。なにもかもを手に入れながら、決しておごらない。勝負で本気で指しあいながら、対局後はどんな対戦相手に常に敬意を払うその物腰は、まさに、将棋界に舞い降りたスーパーアイドルである。村山聖もまた、彼に魅せられ続ける。


 ガンが発覚し、それでも勝負が弱くなるからと周囲に隠しながら、病院からの診察呼び出しにも応じない村山聖の身体は次第にがんに蝕まれていく。それでも、村山が何故「強さ」にこだわり続けたのか。
 その理由は、やはり「羽生善治」なのである。


 村山聖羽生善治に話しかける時の態度は異性に対するそれと同じである。まず強気の態度が取れない。そして目が合わせられない。
 たった一度、彼が羽生を呑みに誘うシーンがある。


 村山聖は趣味が「麻雀、酒、少女漫画」、羽生善治が「チェス」。そしてそれ以外にはとんと興味が無い2人の会話は途切れる。だが、将棋の話をしている時だけは、互いに魂が通じ合う。
 いよいよ膀胱ガンが進行し、「子供が作れなくなる」という理由でいやがっていた除去手術を受け入れることにしたのは、「生きる」ためである。村山は何のために「生きる」のか。
 この映画では「羽生と打つため」としている気がするのだ。


 サシ呑みしている席で羽生はこう言う。
 「対局中時折、どこまで潜っていくのか不安になる事がある。でも村山さんとなら・・・どこまでも深く潜れる気がする」と。

 その言葉に村山も同調する。
 どこまでも行ける。羽生さんとなら。そのためなら、生きられる。


 自分は長く生きられない。それゆえに将棋以外は不器用にしか生きられなかった男が、最後にたどり着くのはやはり将棋である。対局相手が羽生さんであるならば、どんな深いところへでも潜ることが出来る。行こう。ともに。
 「生きているのだから切るに忍びない」と伸ばし続けた髪とツメを切り、夜中に「パチリ、パチリ」と将棋盤に向かい合う。その音を聞きながら、母親(竹下景子)は泣き崩れる。村山の命は、まさに将棋のためだけにあった。


 この映画における村山の描写は、実話を叩き台にしながらも、おそらくフィクションある部分が多分に入っている映画では無いかと思う。けれども、物語を「村山聖」と「羽生善治」という、実生活では決して相容れないであろう2人が、盤上では誰よりも通じ合える関係であるというテーマを軸に、映画を描いてみせたのはなかなか面白い切り口であったように思う。
 まさに常人には見えない風景を求めて潜っていく者達の、愛の映画ではないか。見ていてそう思わされた映画でありました。(★★★★)