虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「アーティスト」

toshi202012-04-09

原題:The Artist
監督・脚本:ミシェル・アザナビシウス



 面白かった。
 まず、モノクロのサイレント映画という表現手法をあえて中心に据えてみせたこと、そして、それを物語と見事にマッチさせた点が新しい。この映画は一好事家がいたずらに「サイレント映画」を作ったものではない。「サイレント映画」を「堂々たる娯楽映画」を作るための、一手法としてきっちり取り入れている点が、とにかく素晴らしい。
 この映画が追求しているのは、映画、そしてロマンスの、シンプルな「ときめき」の復権である。


 物語はシンプルである。映画の公開初日に出会う、男と女。一方は当代きってのサイレント映画のスター。一方は女優を夢見る一素人の女性。二人は、ある日、映画の主演男優と、一エキストラとして運命の再会をする。否応なく惹かれ会う二人。しかし、彼には奥さんがいることを知った女はそっと身を引く。
 しかし、時代は映画の過渡期。映画の技術革新はめざましく、やがて、サイレントからトーキーが主流になっていく。男が教えてくれた「付けぼくろ」と女優としての才能で、トーキー映画の主力女優となり、一気に時代のスターダムへとのし上がっていく。一方、男はサイレント映画という手法を捨てられずに、映画製作会社から離れ、自主製作で新作映画を撮るが、時代の趨勢から取り残され、没落していく。
 かつて映画女優だった妻に捨てられ、身の回りの者を売り払い、いつまでも尽くしてくれる運転手を解雇した彼に残ったものは、相棒である愛犬と自分が出演する過去のフィルムの数々だけ。かつて惹かれた女はスクリーン越しに輝き続けているが、自分は日に日にくすんでいくばかり。
 一方、すっかりハリウッドスターになった女も、男を忘れられずにいた。彼女は影ながら男を見守っていたが、ある事故がきっかけで、女は男を引き取ることになる。


 映画を見始めて「う!」となるのは、まず、やはりモノクロのサイレント映画というジャンルへの違和感である。「あ、話には聞いてたけど、ほんとにしゃべらねーんだ!そして白黒なんだ!」という軽いオドロキである。トーキーだ、カラーだ、サラウンド音響だ、3Dだ、と画面と音声の情報が増えていく一方の映画というジャンルにあって、この情報の「少なさ」は一瞬「なんだこれは」という、一種の異化効果が与えられる。
 しかし、決してチープにはならない。むしろ、映画の「画」は非常にリッチであり、かつ雄弁であるということ。女が「スターダム」へとのし上がる姿と、男が徐々に「没落」している姿は「画」として雄弁に語られる。
 そして時折インサートされる「字幕」の台詞とは別に、「字幕」にならない会話もスクリーンの向こう側で行われていて、その「言葉」を観客はじっと「注視」することで、台詞や思いを「想像」する情感の「余白」がある。情報は少なくても、この映画は非常に「豊か」なのである。


 展開はシリアスになっていくにも関わらず、この映画が決して暗くなりすぎないのは、「男」のそばで常につかずはなれず動き回る「愛犬」アダムの愛らしさ!「彼」は言わば、主人公である「男」の「守護天使」であり、「彼」がご主人様を救う場面は、この映画のひとつのクライマックスである。その献身的な姿にきゅんとすること請け合いである。

 やがて男は人生に絶望して、自分の出演作のフィルムを焼く暴挙に出る。しかし、燃えさかる火の中で、彼は一本のフィルムを守るように抱きしめる。彼が、燃えさかる部屋で守ろうとしたものは何か。
 それは彼が最後に味わった、「人生」最後の「ときめき」。「きみ」と、そして、「映画」の。


 その行為を女が知ることで、映画は少しずつ明るさを取り戻し、やがて本来あるべき明るい「ロマンス」溢れる「娯楽映画」へと回帰する。映画が忘れてしまった「ときめき」を取り戻す。そんな意志がみなぎる、クラシカルで、そして「若々しい」傑作である。(★★★★★)