虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「進撃の巨人/ATTACK ON TITAN」前後編

toshi202015-09-23

監督:樋口真嗣
脚本:渡辺雄介/町山智浩
原作:諫山創


 とりあえず説明不要の人気漫画の実写化である。


 えーと。どうしても感想書いておきたいな、と思った理由はですね。私ね、久々に「試写会」というもので映画を見たのね。Twitter上である映画関係者の某氏にDMもらいまして、で、試写室で見ませんか?みたいなお誘いを戴きまして。で、見たんですね。
で、せっかくお誘いいただいたからにはきちんと感想を書きたかったんです。
 ただね。ボクはブログ長くやってるけど、試写会行った事がそこそこ長い人生で両手に余るくらいしかないんですね。感想書いた映画は必ず金を出して見てるんで、試写会で見た映画はちょっと書きづらい。なんで、とりあえずIMAXとふつうの劇場で前後編、それぞれ計2回ずつ見たんで、感想書く権利をください、という気持ちですね。はい。


 というわけで、ざっくり行きます。


進撃の巨人/ATTACK ON TITAN」(前編)


(写真はイメージです。)


 で、前編である。


 
 個人的な印象から言えば、話が弱い上にドラマ演出がそれに輪をかけて学芸会みたいな印象をうけたのがまずひとつ。最初のエレン(三浦春馬)、ミカサ(水原希子)、アルミン(本郷奏太)が彼らの住む「モンゼン」の街から、街のはずれの丘の上にある「不発弾」のところで集合するまでのシークエンスで「ん?」とは思ったのである。この最初の印象は最後までぬぐわれることはなかった。
 ここでドラマとしてのツカミは「原作既読者」がある程度原作を知っている事に依っている感じがした。そして物語は原作に比べて、非常にミニマムになっているように感じた。巨人の進入を防ぐための最終作戦に携わるのが、原作ではこの作品に従事するのが巨人討伐のエキスパートである「調査兵団」であったのに対し、映画では「壁外調査隊」という食い詰めた素人の寄せ集め集団になっている。彼らは一応それなりの訓練を受けていた設定らしいのであるが、正直伝わりづらい。そこここに「かつては日本だった世界」という伏線も張られているのだが、その中途半端な「縛り」が逆に映画の有り様を窮屈なものにしてるとも言える。この辺は「役柄と役者の年齢を合わせる」問題とも重なる。年相応の恋愛とか等身大の悩みとかを入れようとしたり、「日本人だから日本人として演じるべき」という「リアリティ」問題は、それを演出・脚本双方にそれを描くだけの力量が作り手にないのも重なって、結局フィクションとしての「映画」を不自由にしている。
 あと、役柄の人間が年齢に合わせた普通の青年エレンとミカサの恋愛描写というのが、シキシマを絡めた寝取り寝取られという三角関係のわりに、あんまり深くは掘り下げられずにほぼなんとなく元サヤに収まるという展開は、なんかいたずらに生々しくなっただけで、特にドラマとして面白くはなってないという何とも煮え切らないもので、だったら初めから原作通り、エレンにやたら執着するミカサという設定で押し通して良かった気はするのである。


 特撮部分に関しては、壁の巨大さと、それを越える超大型巨人出現シーンは素晴らしいと思った。
 前半の阿鼻叫喚の巨人の人間捕食シーンに関しては非常に納得がいくものであったが、後半の巨人を討伐するシーンになるとその弱さが露呈する。軍艦島のロケーション効果が功を奏してセット臭さからは逃れているものの、立体起動装置の描写は「魔法」で空を飛ぶがごとき自由自在さになっており、物理法則を無視した動きが多すぎる。唯一の弱点である巨人の首筋を削ぐ時の手応えが無い、クライマックスで巨人の口をこじ開けてアルミンを救出するエレンというかっこいいシーンが、お世辞にも金のかかったコントにしか見えないなどなど、こちらが「さっ引いて」見なければならない描写が続くので全体的に「おお!」っと思うシーンもあれど、「うーん、頑張ってるけどどうなの?」という箇所もまた頻発する。
 しかしまあ、試写会で見た時に感じた音周りの弱さはちゃんとした劇場で見ると解消されて、IMAXなんかで見るとそこそこ迫力を持って見られたり、など、「諸手を挙げて絶賛はできないけど、口を極めてののしる気にもなれない」というのが前編に関する雑感である。


進撃の巨人ATTACK ON TITAN/エンド オブ ザ ワールド」(後編)


(写真はイメージです。)


 後編を見るにあたって、私の最大の興味は「長い上にまだ終わっていない原作をどうまとめるのか。」という一点である。ここから映画は一気に風呂敷を畳みにかかるのであるが、真相というのが、まあねえ。
 ミカサは「普通のヒロイン」になってしまった為、原作の果断さはなくなり、彼女の映画内での印象は一気に薄まっているし、ミカサがまごまごしてるうちに、むしろアルミンの方が能動的に動くというキャラの転倒が起きているし、エレンは状況に流されているままだし、黒幕たちが「どうしてこうなったか」について延々と説明してくれるという展開はなんとも面映ゆい。後編になってようやく「滅んだはずの」調査兵団が出てくるんだけど、ほとんどモブ扱いという酷い有様でがっかりする。シキシマとエレンが二人きりで語り合うシーンを「腐女子歓喜シーン」などと言っちゃう無邪気さは辟易とするし、シキシマととある黒幕が語る「それぞれの魂胆」はなんとも類型的な「政治」の話で、壁の中という非常に狭い世界の中で、ひたすら内向きに考えを拘泥させるオトナという、何とも魅力に欠ける上にやたら思わせぶりな「独善的なエリート」シキシマの謀略は、あっさりと「へっぽこ素人集団」に止められてしまうのでした。
 あとラストバトルで対峙する超大型巨人、結構あっさり倒せちゃったんんだけど、なにあれ。
 割と素人考えでも予想の範疇というか、特に面白くも無い真相が大仰な台詞とともに明かされるという、展開になった挙げ句、物語は実は何も解決していないまま、ハッピーエンド感出して終わる。一番印象に残ったのは、映画の本筋とは何の関係も無く映画の周りをちょこちょこ動き回ったあげく、結構美味しいところを持って行くハンジ(石原さとみ)だったりするのであった。ちゃんちゃん。


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Apple Remote MC377J/A

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ここからが本題


 なんと言ったらいいんだろう。
 まずこの映画が、講談社の経営を一気に立て直した、日本有数のキラーコンテンツ進撃の巨人」の映画化であるということを念頭に入れておかねばならないのだが、この映画を語る映画ファンは「特撮としてのこの映画の意味」だとか「僕らの大尊敬する町山智浩の脚本家としての狙い」などについて拘泥する。だが、一番肝心なのは、この映画が、漫画版は売れに売れ、アニメ版によって広くその面白さが人口に膾炙された、ちょう面白い漫画を実写映画化するということは、それに拮抗しうる面白さを作り手に要求されてくるわけである。まずそのことを言及されなければならない。
 前後編を見た今はっきり言える。「進撃の巨人」の実写映画化としてこの映画はどうか。


 成功してはいない。


 まずここを起点に話さねばならないだろう。まず。そして、そこから「なぜこれほど日本有数のクリエイターたち、個々に力量のある俳優陣が集結しながら、この映画は「成功」し得なかったのかについて考えなければならないはずだ。まずこの映画は、原作漫画と比べてどういう話だったかと言えば。

 明らかにデチューンである。原作を越えるものを作ろうという意思は感じるものの、結果としては自分たちの「実写映画化」できる範疇で原作を語り直すという、非常にリスキーな賭けに出ている。もちろん語り直すのは悪いことでは無いのだが、結果としては「原作通りに映像化出来ないから改変」し、尺の都合上1本なり2本なりの映画として、実写として可能な形でまとめなければならないという制約が付く。結果としては実写映画化のためにわざわざ質の落ちたオリジナルの物語を一つでっち上げなければならなかった。
 その時にね、何故、その話を作る役を、脚本家としてのキャリアがほぼ無いに等しい、多忙な映画評論家に任せるに至ったのか。



 町山智浩さんを信奉するがゆえに共同で脚本担当した渡辺雄介さんを戦犯にしたい人がTwitterでも見受けられるのだが、渡辺雄介さんが同じく共同脚本作業を手がけた「ドラゴンボール」の正統続編となるアニメーション映画「神と神」は、原作者・鳥山明との共同作業で質的にも非常に優れたものが出来ている。その成功が続編映画「復活のF」、そして現在放映中の「ドラゴンボール」新作アニメシリーズへと広がりを見せているわけで、予算的には大きな違いがあるかもしれないが、それでも決して脚本家の力量だけの問題では無いのではないか。
 俺が思うのはね。町山智浩さんはこの映画を「巨人殺し」と例えていたけれど、どちらと言えば「後退戦」「退却戦」に近いもので逢った気はするんですよね。言わば、そのしんがりを引き受けてしまったのが、樋口監督だったり、町山さんだったりしたのではないか。


【参考】
町山智浩 実写版映画『進撃の巨人 前篇』を語る


 この映画はそもそも中島哲也監督で企画されながら、試行錯誤しながら結局流れてしまったプロジェクトで、それを樋口真嗣監督が引き継ぐかたちで始まったわけだけど、多分東宝としてはこの「客を呼ぶ金の卵」原作のブランドの味がするうちに実写映画化しておきたいという心がある。けれども、中島哲也監督の構想に使ったお金が捨て金となり、そのマイナスは制作費を圧迫する。国内で、日本人キャストで、制作費をなるべく掛けない形で映画化する条件を呑んだのが樋口真嗣監督ということになるのだろう。
 つまり、せっかく買った映画化権を赤字でゴミにせず黒字でペイしたい東宝の思惑に、樋口真嗣監督が乗った。だけど、まともな脚本家はあの原作を1本の映画にまとめること自体に難色を示すケースが後を絶たずに、困った挙げ句に依頼したのが「町山智浩」という「奇策」だったんだと推察する。


 先日のラグビーでも明らかなように「ジャイアントキリング」は「無条件で起こる奇跡」ではない。「奇跡」には「起こるための最低条件」がある。
 はっきり言えばだ。町山さんがいう「巨人殺し」に至るためには最低でも「2つ」必要である。とにかく原作に比肩しうる「面白い物語」を生み出す「ストリーテラー」。そしてそれをより面白く取れる「映画監督」だ。
 町山智浩さんは日本の中でもトップクラスの映画評論家だし、樋口真嗣は特撮界では日本が誇る天才だ。
 だが、「進撃の巨人」映画が成功するための条件としては明らかに不適格なんですよね。町山さんは「脚本家経験ほぼゼロ」、樋口真嗣監督は「特撮はうまいが、ドラマ演出は褒められたもんじゃない。」というのが映画監督としての一般的評価だったんですよね。。そこを初めから見誤ってる。・・・いや、そこは冷静に考えるならば町山智浩さんもわかってはいたはずなのだ。だがそれでも、引き受けてしまったのは、町山智浩という名前を出したのが他ならぬ原作者だったからだ。
 本来ならば、「原作とは違う、されど質的に比肩しうるオリジナルの世界観の物語を作れ」と言われた時点で降りるべきだったんですよね。町山智浩さんは。でも、それでも引き受けたのは、「作り手の熱」だと思うのです。


【参考リンク】
春日太一さんの【「進撃の巨人」後編、ここがつまらなかった】 - Togetter


 本作をTwitter上で酷評した映画史・時代劇研究家の春日太一さんは、自身が以前香取慎吾主演の「座頭市 THE LAST」に好意的な文章を書いたことについて釈明するエントリで、こう書いている。

実はパンフで殺陣師の菅原俊夫さんにインタビューをさせていただいた際、
香取の壮絶な役作りを聞いて感銘を受けたんですよね。
で、その勢いで本編を見て、こちらも心を動かされた。

ところが、実際のパンフでは
香取の役作りや現場でのハード過ぎる撮影ぶりのエピソードは
全てカットさせられてしまいまして。

なので、
「なぜ春日がこうも香取を評価しているのか」
自分と菅原さん以外には誰にも理解できない状況になってしまいました。

ただ、菅原さんほどの男が惚れ抜いた男ですから。
自分も心中したれ、という気持ちで飛び込んでいきました。

そこに関しては、今も後悔はないし
「あれがトラウマになって春日は新作評をしない」ということでもありません。

ただ、一つ気づいたのは。」現場の熱さは必ずしも観客には届かない・・・ということ。

香取慎吾の座頭市の感想文について、今さらながらの真相 - 春日太一の「雪中行軍な人生」


 「作り手の熱」は「優れた評論家の勘」をも鈍らせる。その作り手の熱に自ら巻き込まれに行った、というのが本当のところだろう、と思う。それでもその映画が「成功」するかはまた別の話だ。
 町山智浩さんはおそらく出せるものはすべて出し切ったかたちで完成稿を書き上げたのだろうし、樋口真嗣監督はおそらく、出来うる最大限の努力と情熱でこの「進撃の巨人」実写映画化という、ミッション:インポッシブルに向かったというのは想像には難くない。こうして出来上がったものは、少なくとも、東宝も「夏の目玉」として興業に賭けるだけの「大作」感は出たという判断で、夏の目玉作品として興業に掛ける判断がされたわけだしね。
 つまり「後退戦」「退却戦」を「犠牲を少なくして」映画を成立させるのには成功している。「商品」として10億円の制作費で前編だけで「30億円」以上を回収したわけだしね。ビジネスとしては間違いなく「うまくいった」と言える。


【参考リンク】
進撃の巨人の画像投稿作品の検索 [pixiv]


 だが、問題はこれで「ファンが納得する『進撃の巨人』実写版」がデキタか?と問われれば、僕らは「NO!」と言わなければならないだろう。
 たとえば、好きなキャラクターを、わざわざ絵にするほどの熱狂的ファンが集うpixivの進撃クラスタたちは、少なくともこの映画に出てくるオリジナルの登場人物たちに、ピクリとも反応していない。一番突出して外連があったはずの「シキシマ」にしてからが、原作キャラクターに比べても絵にする人間は圧倒的に少ない。原作を塗り替えるほどの魅力的な登場人物達による、魅力的な物語の創出は為せなかったと見るべきだろう。


 結論から言えば、だ。原作にそれほど思い入れがなければ、この映画を好きになれる可能性はあるだろうし、面白いと言うことも出来るだろう。だが、この映画は画づくりこそ、立派だが、物語の質的に言えば「『進撃の巨人』に似たなにか別の話」でしかない。「俺原作より映画の話が好き」という奇特な人間がいたとしても、多くの「進撃の巨人」ファンはなんらかの不満を抱えながら映画館を出たはずである。
 しかし、これはある意味「始める前からわかっていた」負け戦ではなかったか。この映画は言わば、「どのように負けるか」という映画であって、その中で最善の結果を模索しつづけた映画と割り切ると、この映画は理解しやすい気がするのです。


 巨人殺しはかくてなしえなかった。とりあえず、ボクは「進撃の巨人」の一ファンとして、バンダイチャンネルで原作に忠実なテレビアニメ版を見つつ、来年春に放映されるテレビアニメ版二期を静かに待ちながら、筆を置くことにします。あー!アニメ版ちょう面白い!早く動くヒストリアちゃんが見たい!(★★☆)