虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「どろろ」

toshi202007-01-27

監督:塩田明彦 原作:手塚治虫 脚本:NAKA雅MURA/塩田明彦
http://www.dororo.jp/


「お前はお前だ。俺が俺であるように、お前はお前でしかない。それは凄く辛いことかも知れない。だがそれに押しつぶされるな。お前がお前自身であることに、負けるな」(「カナリア」より)


 

 えー、さて。
 手塚治虫の名作「どろろ」の映画化作品ですが、この映画の冒頭に字幕が出てくる。賢帝歴三千いくら年。
 つまり、室町時代じゃありません、原作通りの世界じゃないんです、ファンタジーなんです、とお断りですね。まあ、百鬼丸の体じたいファンタジーみたいなもんだしなあ、と思ってるんで、俺としては全然構わない。実写でやるならば当然の仕儀だと思う。


 というわけで。


 厳しい意見も聞きますが、俺には全然、全然ありでしたね。この作品を塩田明彦が撮った、という前提ありきですが、俺はこの映画版を支持します。
 ただ、過剰な期待は禁物かもしれません。塩田監督は、インディーズ系映画の名手ではあっても、職人監督としては決して天才ではないからで、ファンタジーとして美事なまでに完成された傑作、ということはないです。ないですが。ただね。この映画を塩田明彦が作ったのは自然な流れだと思いましたよ。



 塩田明彦の作品として見るならば、原作に深いこだわりがなければ、決して悪い作品ではない。。



 父・醍醐景光大望のために体の四十八カ所を奪われた子供・百鬼丸を描いた「どろろ」は、元々親の呪いを子が受け継ぐ物語。ロリコンの大人たちに魅入られた少女の過酷な世界への旅立ちを描いた「害虫」、親がオウム信者だった少年が辿る地獄巡りのような旅の道行きを描いた「カナリア」と言った作品の系譜に連なる題材と言える。
 娯楽映画の中に親に捨てられた子供たちが怪物化した妖怪を重要な存在として描いたりするのはもの凄く腑に落ちるわけです。どろろが感情的な部分を引き受け、百鬼丸が現実に諦観していた部分に怒り狂うことで、感情を代替する、というシナリオもそれなりに上手くいってると思ったし、彼らが出会い、切り伏せていく魔物は、そのまま、彼らの親が残した負の遺産を受け継いだ者の理不尽の具現でもあるだろう、と。


 そしてこうも思う。

 「害虫」が旅立ちを、「カナリア」がその旅の道行きを描いたものであるならば、塩田監督が「どろろ」で描いたのは彼らの帰還ではないか、と。


 親への憎しみと愛しさの狭間で、どす黒いカオスを抱えた百鬼丸の葛藤は、そのまま、「害虫」「カナリア」から続く主人公たちの心の道行きの終着点ではないかと思うのだ。しかも仲間のどろろの親の敵は自分の親というのは、オウム信者の子供の友達が実はオウム事件の被害者の子供でした、という風でもある。百鬼丸は、呪われた子の持つ運命を体現することになる。


 親の呪いは子の呪い。どろろもまた、それを受け継いでいる。そこから、如何にすれば逃れられるのか。それはもしかしたら、魔物を全て切り伏せてもなお、逃れられないものなのかもしれない。


 映画が終わっても、呪いのカナリアたちの旅は続く。


 大人の残した不始末は子供に受け継がれる。その大人にとって都合の悪い真実を、何回も何回も観客に突きつけるこの映画は、塩田明彦の娯楽映画としては、もの凄く真っ当なファンタジーに仕上がったと思うのだ。(★★★)