虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「日本のいちばん長い日」(2015)

toshi202015-08-15

監督:原田眞人
原作:半藤一利
脚本:原田眞人


 1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を決断した日本政府の大混乱に迫ったドキュメント、半藤一利原作「日本のいちばん長い日」二度目の映画化作品である。
 1968年の岡本喜八監督版がまさに8月15日という日の日本中枢で起こった24時間の狂奔をドキュメントタッチで迫った作品であったわけだが、本作はポツダム宣言を受諾を決断することになる鈴木貫太郎内閣の戦いと昭和天皇の苦悩、ポツダム宣言受諾に反発し暴走する者たち、個々の人物にスポットを当てた「群像劇」の体を為している。



 この映画で阿南陸相役を役所広司が演じているわけだが、奇しくも太平洋戦争開戦に反対しながらも、やがて「即時講和」を条件に開戦に関わることになる山本五十六を描いた「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で主演を演じていた。
 その映画の感想で書いたことだが、日本が太平洋戦争へと突入していく、その流れは日本がたどってきた歴史と不可分である。

 みなもと太郎先生が今執筆されている「風雲児たち」および「風雲児たち 幕末編」は、坂本龍馬を描きたくて、結果、江戸幕府成立から幕末までの、江戸時代の全体を追いかける超大作・大河歴史ギャグ漫画であるが、この漫画を読んでひどく感銘を受けたのは、歴史というのは地続きであるということである。
 歴史の教科書ではある時急にこういう「事件」が起こったということを、ただ羅列していくだけだが、厳密に言えば、すべての歴史の出来事には連綿とした歴史のつながりの中に、その理由がある。

 山本五十六が初めて戦争に従軍したのは「坂の上の雲」のクライマックスとも言うべき日露戦争日本海海戦である。彼はその時の従軍で指を2本、失っている。そして彼にはそれ以降の従軍の経験がない。ただ、彼には日露戦争が、「講和」のタイミングによって日本が勝利した事実を体験的に知っている。
 映画では描かれないが、「坂の上の雲」で描かれた、日本海海戦の大勝がきっかけで「講和」に持ち込んだ記憶が、おそらく「真珠湾作戦」構想の大元だとボクは思う。

 つまり「真珠湾攻撃」による「日米開戦」という危険極まりない賭けに、山本五十六が踏み出すのは「即時講和」という前提があったからで、それは映画にも描かれている。それは「日露戦争」で大国ロシアをうっちゃった、海軍の歴史を見続けてきた男の発想である。そしてその前提を覆されたまま戦争を続けることは、日本を泥沼の悪夢へと引きずり込むことになる。

坂の上の雲の先 - 虚馬ダイアリー

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 みなもと太郎先生が「関ヶ原の合戦」から「幕末」へと至る漫画を書く中で、「過去」と「今」は連綿とした流れの中でつながっていくと喝破したように、幕末から明治維新、そして昭和20年8月15日は連綿と続いた歴史の必然性の中で、起こっている。
 8月15日に起こることは、「坂の上の雲」へと駆け上がっていこうとした日本が、その流れの中で「誤って」しまった決断、その尻ぬぐいを誰がするかという話である。日本を「ロシアにも勝てる日本」という幻想を生んだ1人・秋山真之を「坂の上の雲」で演じていたのが本木雅弘、その幻想をその目で見てしまった為に太平洋戦争開戦へと譲歩してしまった山本五十六を演じていたのが役所広司
 その2人が本作では、本木雅弘昭和天皇役所広司が阿南陸相をそれぞれ扮し、「誤った決断をした日本の尻ぬぐい」に関わっていく2人の人物を演じていくわけである。



 岡本喜八監督版はまさに「大日本帝国」の断末魔を冷徹に描こうとした、言わば「大日本帝国の葬式」映画である。つまり、戦前にトラウマを持っていた日本人が「今の日本とは決してつながってはいない」という事を確認するために、大日本帝国がのたうちながら死んでいく様を冷徹に見つめ続ける物語構造になっている。言わば、「日本の過ち」を現代(1968年)から「見つめ返す」物語であった。
 だから当然、昭和天皇は登場人物ではあり得ない。なぜならその時はまだ、日本の象徴天皇としてまだご存命であったし、昭和天皇を物語の一人物として詳らかに描くことは出来なかったわけである。


 一方こちらの2015年版はというと。これはもはや昭和天皇が映画内の中心人物として描かれ、ポツダム宣言という「敗戦」を受け入れる「決断(ご聖断)」へと至る物語として描かれてる。


 昭和天皇は現人神であり日本軍の統帥権を持つ絶対権力者でありながらも、決して強く政治主張を出来ない微妙な立場にいることが、2015年版では描かれている。だからこそ、老齢だからと首相指名を固辞する鈴木貫太郎に重ねて「頼む」と言って、昵懇である男を首相に据え、さらに自らの苦悩を察し、鈴木首相とは決して縁浅からぬ阿南をさりげなく「陸軍大臣」へと就けるように暗に示される、という描写が続く。


 つまり昭和天皇の戦いとは、自分を戦争の為の「道具」と見なさない、数少ない本当の理解者たちの手助けによって、自らが「敗戦」を受け入れる「決断」出来る状況を生み出そうとして、それを為すまでの物語である。
 ご聖断によって幕引きを測ろうと暗闘する者たちと、そのご政断に逆らってでも戦争を続けようとする側の駆け引きの映画であり、聖断に逆らう人間は、悪し様に描かれているのが特徴的であると言っていい。
 本土決戦することなく、戦争を終わらせたいと願いながら陸軍を押さえる為にあえて総理と対立姿勢を鮮明にする阿南陸相や、天皇陛下の意を汲み、ポツダム宣言受諾への道筋をつけようとする鈴木貫太郎首相は「マイホームパパ」的な側面を描く一方、天皇の大御心に反発し「本土決戦」を強行するために内乱を起こす陸軍強硬派である畑中健二(松坂桃李)らは、次第にサイコパス的に描かれていくことでも明らかだ。


 日本は1945年8月15日に「敗戦」したはずである。だが、我々はその日を「終戦記念日」と呼んでいる。「敗戦」ではない。「終戦」なのだと。
日本国民はずっと「大日本帝国」に欺されてきたのだ、という歴史の中で、昭和20年8月15日を境に我々は「変わらなければならぬ」という意識の中で「戦前と戦後」という形で「昭和」を分断してきた。


 原田眞人監督は言わばその「接続」が途絶されてしまった戦前/戦後という溝を、「昭和天皇」という存在によって歴史をもう一度「接続」しようという試みなのでは無いか。岡本喜八版が「戦前は戦後の我々とは違う」という思いを込めて撮り上げた映画に対して、原田監督は「変わったようでいて実は変わっていない日本」という映画を撮り上げたのではないか。それがすごく「今」な認識であるようにも思う。日本は戦後70年を経て、再び過去の日本へと戻ろうとしているのでは無いか。それが、「平成」において「日本のいちばん長い日」が再映画化された意味なのかもしれない。そんな時代にあっても、「昭和天皇」の美しい大御心をこそ大事にすること。それが原田監督にとっての「平和」の思いとして描きたかったもの。物語化したかったもののように思う。
 だが、忘れてはならないのは、昭和天皇や阿南陸相もまた、戦前に大きく道を誤った人々の1人だと言うことである。彼は戦犯としては裁かれはしなかったが、それは反共の防波堤として日本を再建させねばならぬという、アメリカの事情もあってのことだ。天皇陛下は裁かれるのも覚悟で、ご聖断を下した。しかし皮肉にも裁かれずに、今も戦後が続いている事は我々にとって良かったのか悪かったのか。それは今の時代が証明しなければならぬことなのかもしれない。日本は幾度となく「しくじり」続けてきた。我々が学ぶべきは「しくじりの歴史」を知り、それを繰り返さないことだけである。(★★★)