虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「FOUJITA」

toshi202015-11-14

監督・脚本:小栗康平


 小栗康平監督の新作。


 この映画を見たのは東京国際映画祭の事である。


 初見でこの映画を見て、そうだ、映画とはこういうものでもあったのだ、というのが率直な感想でアル。「再発見」をしたようにも見え、その実、小栗康平という映画監督が今も変わらずに「小栗康平」であり続けていたということでもあった。
 映画は世界的に著名な画家・藤田嗣治の生涯をモチーフにしている。女性と猫のモチーフでフランスで一世を風靡し、世界中を旅しながら自らの絵を常に革新しつづけ、戦時中の日本に戻ってから数多くの戦争画を残し、やがてフランスに舞い戻り、日本には決して戻らなかった。ボクは彼の生涯も、具体的な知識も持たずに映画に臨み、そして、多くの「?」を持ちながら劇場を後にしていた。


 しばらく後に、東京国立近代美術館を訪れ、彼の絵を見た。一枚一枚、絵を見ながらその絵に向き合いつつ、特に圧倒されたのは「戦争画」の方だった。戦争の闇、人の生き死にが生々しくぶつかり合うその姿を、非常に劇的に描いていて、パリ時代の流行画家としての淡泊さに比べると、非常に濃密な作品のように見えた。


 この映画は、フランスで気鋭の画家としてパリで自由な空気を感じながら生きていた時代と、第二次世界大戦中の日本に舞い戻り、政府の要請で戦争画を描き続けていた時代を描いているわけだが。
 映画の中のオダギリジョーが体現する「FOUJITA」はある種、偉人伝のそれとはほど遠い。「藤田嗣治」という肖像には似ているが、彼の内面に関しては驚くほど内面をそぎ落としている。ある種、小栗康平監督が求めていたのは「偉人伝・藤田嗣治」ではなく、一個人である「画家」が状況の中で「何を見ていたか」という事である。
 この映画に置いて、「藤田嗣治」がどういう足跡をたどり、どういう考えを持ち、そしてなにを感じていたのか。この映画はそれを観客の前に「無」として差し出し、その状況の中で個人としてどうしていたのかのみを提示していく。
 面白いと思うのはそこである。小栗康平監督はあえて、私たちに「彼が考えていた」ことを私たちにわかりやすく見せはしない。情報をそぎ落とし、台詞をそぎ落とし、「画」によって語ろうとしている。あえて、物語を我々に提示はしない。彼が見てきた「画」を一時代の区分で切り取りながら、その空気を描こうと試みる。
 それは我々が普段見ている「映画」の「作法」から言えばひどく説明不足のようにも感じられる。



 しかし、藤田嗣治の「作品」を実際に見てきたことで、映画を見た後、「?」だらけだった私の頭の中に、ようやく小栗康平監督が観客に見せたいものが見えた気はしたのだ。人生のダイジェストにする事に、小栗康平監督は興味が無い。我々は「絵」だけを見てどこまで想像力を膨らませられるか。それを観客に求めている。
 一枚一枚、絵を見る。じっとただ、数秒間、数分間、数時間でもいい。一枚の絵に込められた「時間」に対して、僕らは「藤田嗣治」が描こうとしたもの、彼が描こうとしたもの、彼が見ていたものについて、考える事が出来る。オダギリジョー演じる「FOUJITA」の本来描くべき内面も逸話も極力そぎ落とし、彼が批判されていた「政府に言われるがままに絵を描きちらしていた」という風評も越えて、彼が一個人としての振るまい、そして彼が見てきたかもしれぬ風景を「画」として見せる。劇中に出てくるオダギリジョーの演じる「FOUJITA」は言わば「空っぽの器」である。だからこそ、その「器」に何を入れるのか。それは「観客の想像力」で埋めるしかないのである。


 この映画はただ漫然と見ているだけではもしかしたら「退屈な映画」に見えるかも知れない。だが、この映画と向き合い、そしてこの映画があえて描かない「エアポケット」の存在に気づけたなら、この映画を芳醇なモノに出来るかは、「観客の想像力」次第なのである。その事に気づけたならば、この映画はもしかしたら、無限の喜びを与えるかもしれないのである。映画とはこういう事も出来る。映画の表現も、楽しみも、我々の想像を越えて様々なのである。
 そういう意味で、この映画は「偉人伝映画」というジャンル映画という枠組みから、見事に脱却しているのである。映画という表現はこういう事も出来るという事である。(★★★★)