虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「るろうに剣心/京都大火編」

toshi202014-08-02

監督:大友啓史
原作:和月伸宏
脚本:藤井清美/大友啓史
アクション監督:谷垣健治

『全身の細胞が狂喜している。加速せよ、と命じている。加速せよっ…加速せよっ!!目には映らない物、耳では聞こえない音、集中力が外界を遮断する。膨張する速度は静止に近い。』
松本大洋「ピンポン」より)


 本作は、大人気漫画「るろうに剣心」実写映画化第2作である。



 実を言うと「るろうに剣心」で俺が好きだったのは東京を舞台にした初期シリーズまでで、かつて人斬り抜刀斎の後継者と言われた志々雄真実が歴史の表舞台に飛び出し、明治政府に堂々と反旗を翻す京都編は、あまり好きではない。東京編の頃はまだ「歴史に翻弄された男が安住を求める」というリアリズムがあったのだが、京都編からいよいよ、パラレルワールド的な明治時代という、言わば「ファンタジーとしての明治時代」に移行してしまう。
 そこを割り切って見られるかそうでないかで、この映画の評価はがらりと変わるだろう。「なんで軍隊を出さないんだ」という問いに、「外国に内乱状態の日本を見せるわけにはいかない」と言っているが、当時は西南戦争を皮切りに、士族の内乱大盤振る舞いの時代なわけで。現実の歴史とは明らかに違う「時系列」の話の物語なのだと思う。



 大友監督のうまいところは、キャスティングの妙だ。「龍馬伝」のメインディレクターだったこともあって、前作に引き続き、大河ドラマからうまくイメージをスライドさせたキャスティングが目を引く。志々雄真実役の藤原竜也は、若き日の志々雄を「新選組!」の沖田総司を彷彿とさせる姿で登場し、「龍馬伝」で岡田以蔵を演じた佐藤健緋村剣心と並べると、闇から這い上がった岡田以蔵と、闇に落ちた沖田総司が対峙しているようでもある。
 さらに、「龍馬伝」で高杉晋作を演じた伊勢谷友介が四乃森蒼紫、「龍馬伝」で坂本乙女の少女時代を演じた土屋太凰が巻町操を演じるなどのキャスティング、そして映画の最後には坂本龍馬を演じた「あの男」も登場する。「龍馬伝」の登場人物たちが、新たなる世界に「転生」したかのような面白さがある。


 剣心は神谷道場での「平穏な日々」を離れ、かつての自分の「後継者」である志々雄真実が生み出した、新たな時系列に生まれた「地獄」の中で、逆刃刀をを振るっていくことで、こころに閉じ込めていたはずの「人斬り」としての本能のうずきを感じ始めていく。


【関連】
るろうに剣心」感想
大河のほとりに立つ男「るろうに剣心」 - 虚馬ダイアリー


 この映画のつくり自体は前作と変わらない。実写化に際し、「サムライスピリッツ」などの対戦格闘ゲームにハマっていた原作者がキャラクターに使わせていた「龍槌閃」などの大技は一切排除され、「常人よりより運動神経のいい部類」の「人間」が、「不殺(ころさず)の誓い」を守るために作った逆刃刀を手に、瞬速の剣で敵を泥臭く1人1人、ばったばったと倒していく、という「アクション」として活写する方向性に移行している。
 大技を封印し、この速さに特化した方向性は間違っていないと思うし、大友監督の意向を最大限に汲んだ谷垣健治アクション監督の仕事は見事と言える。殺陣よりも速い剣劇を、香港映画のアクション監督に求める、というのもアイデアとしてはいい。その仕事ぶりのおかげでアクションシーンの評判は上々だとも聞く。


 だが、ボクは見ていてこう思った。
 大友監督は相変わらず「アクション」が撮れてない。谷垣さんの仕事を「映画」に生かし切れていないと言うべきか。


 大友監督は言わば、「すさまじい速さ」の体技を「すさまじい速さ」で撮りたい人なのだとは思う。だが、いくら速い直球でも同じところに何回も同じ速度で投げたら打たれてしまうように、この「速さ」がまったく同じテンポでやってくるとなると、実は映画のテンポは「単調」になってしまう。
 大友監督は基本的に同じ速度の球を投げすぎである。
 この映画のドラマツルギーは志々雄の一派と戦い続けることによって、剣心が「修羅」の道へと引き戻されそうになっていく、ということだ。その揺れをつるべ打ちに続くアクションの中で、どのように描いていくか、というのが映画の焦点のはずだが、この辺がまったく「なっていない」。
 別に「剣技の競技会」を撮ってるんじゃないんだからさ。ただ「速い」アクションを「速く」撮ればいいってもんじゃないでしょう?あれじゃ「佐藤健」が必死に頑張ってるだけであって、「剣心」が「達人」として圧倒的速さをもって敵をあしらっている感じは出ない。


 剣心が「人斬り」として少しずつ研ぎ澄まされていく姿を描きたいのならば、彼が覚醒するたびに、むしろ世界は「静止」に近づいていくはずだ。


 つまり、人斬りとしての本能が再び目覚めつつある、「研ぎ澄まされた」剣心から見える世界は少しずつ「遅く」なっていかねばならない。ところが、大友監督は、「常人」から見た剣劇の「速さ」に固執しているので、「凡人」たる我々に、剣心が感じる「世界」を垣間見ることはできないのである。だから、志々雄と対峙した時、怒りに身を任せて本能のままに「人斬り抜刀斎」へと戻っていこうとする剣心の心に。観客は同調できない。
 その「剣心」と「抜刀斎」との人格の間で揺れ動く男を、「剣心」に引き戻すために「神谷薫」や「相楽左之介」は京都に乗り込み、幾度となく、人斬りとしての人格に飲み込まれそうになるのを救われる、という展開を「アクション」で表現しきれていないのである。


 そんな「かつての自分に引き込まれそうになる危うい男の戦い」というドラマをアクションで語りたいならば、彼の「目線」に寄り添うか、彼の「世界」に寄り添うかしかない。この作品は「アクションがいい」という評判が立っているが、むしろ、ドラマに寄り添えないアクションは、ただの「体技の見世物」でしかない。本作は未だ、「アクション」が「アクション」たりえていないのである。
 原作が持つ欠点である「ファンタジーな明治時代」を実写映画として置き換えた作品として、かなり力を入れた大作として成立させた点において大友監督の力量は確かだと思いつつ、肝心の「アクション」を物語に組み込みきれなかったことは大変もったいないと思ったのでした。(★★★)


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