虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「マレフィセント」

toshi202014-07-10

Maleficent
監督 ロバート・ストロンバーグ
脚本 ポール・ディニ/リンダ・ウールヴァートン

 
 


 「眠れる森の美女」の悪役・マレフィセントから見た、「もうひとつの眠れる森の美女」である。


 そも、ディズニーは原作を原作通りに仕上げることはしない。現代の時代性というものを入れながら改変するのは常である。マレフィセントはディズニーが生み出した一種の「落とし子」である。
 ディズニーは眠れる森の美女をアニメ化する際に「魔法使い(妖精)」を12人から3人に減らしている。グリム版「眠れる森の美女」は12人の魔法使いが王の城に呼ばれ、それぞれに祝福の魔法を姫にかけるが、城に呼ばれなかった13人目の魔法使いが、11人目の魔法使いの後に「15年後に死ぬ」呪いをかけ、12人目の魔法使いがその呪いを「100年の眠り」の呪いに修正する、というのが前段だ。
 マレフィセントは、ディズニーが童話を現代アニメーションにする段階で、「死を賜る」呪いをかけたのを3人目の妖精が単純に「眠るだけの魔法」に切り替え、オーロラ姫は王国も関係者も100年後ではない「現在」のままの王国を引き継ぐことになるわけである。


 ディズニーが「現代性」を与えるために生んだ忌み子に、より現代的視点で「人間性」と「人生」を持たせて、彼女が何故姫に「呪いをかけたか。」にスポットを当てて映画化するという企画は、ディズニーの彼女への贖罪にも似て、面白い。


 物語は1人の女精霊の「激しい恋」と「裏切り」を体験し、もう人間なぞ好きにならないと決め、彼女を裏切って王の座に着いたステファン王の娘・オーロラに「15年後に眠りにつく呪い」をかけてしまう。
 グリム版の13人目の魔法使いは完全な逆恨みで姫に「死」を与えようとし、12人目の魔法使いが「なんとか修正」するという流れを、「彼女の中の葛藤」の中で、「15年後に死の眠りにつく」という魔法の中に「真実の愛によるキス」によって目覚めるように自らの葛藤の中で「選び取る」という流れになることを、アンジェリーナ・ジョリーという「憎悪」と「母性」の狭間で揺れ動く肉体の中で表現してみせたのは見事だと思うのである。


 そしてなにより面白いのは、この映画に描かれる男性への絶望である。男は粗野で乱暴で、信頼を寄せても裏切るものであるという視点がより濃厚で、この絶望感はちょっと凄い。
 マレフィセントは「真実の愛」などない、という絶望があるからこそ、かつての恋人である憎き王の娘に「眠りの魔法」を掛けた。彼女を裏切ったステファン王は因果応報の報いを受けるし、「眠れる森の美女」で彼女を目覚めさせるフィリップ王子は完全に「置物」か「アイテム」感覚で描かれる。
 この映画ではかつてディズニーが描いていた王子といつまでも幸せにくらしましたとさ、という「ハッピー・エバー・アフター」の形は死んでいる。


 その代わり、彼女の絶望を救い、または新たな絶望を生むのは彼女の中に目覚める、圧倒的なオーロラ姫への母性である。

 一部感想エントリで、育児に一切役に立たない乳母役になった3人の妖精を「ネグレクト」の象徴として見ている人がいたが、この場合、「マレフィセント」の中の設定として妖精はそもそも、人間に「母性」など抱かない生き物であるという事だと思う。そんな「3人の妖精」たちとは対称的に、「人間との恋」という「禁断の果実」を食べた妖精のマレフィセントは、持つはずのない「人間への母性」を持ってしまうわけである。そこから生まれてしまう、かつて己のかけた呪いとの葛藤こそ、この映画のドラマツルギーの中心となって行く。


 そしてその彼女は、やがて、本当の真実の愛を知ることになる。ディズニーが産み落とした「ヴィラン」に捧げられた、ささやかで大きなギフトであろう。(★★★☆)