虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「塔の上のラプンツェル」

toshi202011-03-16

原題:Tangled
監督:ネイサン・グレノ、バイロン・ハワード
脚本:ダン・フォグルマン
音楽:アラン・メンケン


 3月11日に起こった東北を中心に起こった大震災をテレビで、ラジオで、新聞で、ネットで、見聞き読む日々が続く中で少しずつ澱のように鬱々とした気分が、自分の中でよどんでいる。
 日を追って深刻な被害が次々と明らかになり、被災した方々のことを想像するだけで、言葉に出来ない気持ちになる。新聞印刷を生業にしているので、尋常ならざる被害や、刻一刻と深刻になる二次被害を報じる紙面を印刷していると、もう普通の精神状態ではいられず、不安と絶望で気持ちは自然と落ち込んでいく。仕事帰りにラーメン屋でひとり、とんこつラーメンの替え玉をほおばる、その幸せだけでふいに涙がでてしまうような日々。
 今日は休日だったのだけれど、電力不足で、街の灯りはなるべく必要最低限を除いて消灯され、節電、節約し、商売やイベントも自粛するのが当たり前、みたいなムードが町中を支配する中にあり、今日も出かけずに家にこもっていようか、とも思っていたのだけれど。
 そんな心持ちの僕の中にふいに願望が浮いた。「映画が見たい」という願望。しかし、その願望はなにかしら罪深いもののように思えて、しばらく悩んだ挙げ句、ツイッターで「映画見ていいのかな?」というつぶやきへの、何人かの方々の快い返事に背中を押されるようにして街に出た。


 さて、何を見ようか。となった時に、あまりにも深刻なドラマに向かう気にもなれずに選んだのは、ディズニーの新作アニメ映画「塔の上のラプンツェル」だった。


 主人公・ラプンツェルは生まれた頃から人里から遠く離れた谷間にある、高い塔の上に居て、一度も外の世界に出だ事がなかった。彼女の髪には魔法のチカラが備わっていて、彼女はそのチカラを独占したい魔女に、親元である王宮からさらわれて以後、高い塔の上で魔女の娘として育てられ、外界との接触を断たれていた。
 彼女の髪に宿る魔法のチカラは、髪を切るとうしなわれてしまうため、彼女は生まれてこのかた、髪を切ることを許されずに生きてきた。
 18歳の誕生日を間近に控えた彼女は、毎年、自分の誕生日になると必ず遠い空に浮かぶ、光の大群を窓から見てきて、是非間近でその光の大群をみたい、と願うようになるが、母親からは強く拒否されて、その願いをあきらめかていた。


 そんな時、ひとりの男がラプンツェルのいる塔に迷い込んできた。フリン・ライダーと名乗るその男は、泥棒の一味で、ティアラを盗んで、追われる逃亡犯であったが、外の世界の人間を恐れるラプンツェルに捕らえられ、ティアラを奪われる。
 そんな男が、人里離れた塔の上に住む、人一倍美しい黄金の、人一倍長い髪を持つ、人一倍アヤしい娘に、ティアラと引き替えにされた要求は、彼女を街へ連れて行くことだった。
 こうして、ラプンツェルは、17歳にして初めて、塔の外へと足を踏み出した。


  ラプンツェルは塔の中に閉じ込められてはいるけれども、とても楽観的で、日常をつねに楽しむような、非常にアクティブな性格の女の子である。しかし、その楽観は魔女が作り出した箱庭の中での楽観であり、外へ踏み出すことは強い願望でもあり、恐怖でもあった。
 しかし、彼女は外の世界へと出た経験の中で、本来の彼女自身が持つ、強さをも感じるようになる。


 さて。
 この映画で大変印象的なのは、ラプンツェルが外の世界へと踏み出したいと思った契機ともなる、街の人々が、ランタンを空へと浮かばせる祭りのシーンである。
 この行事はそもそも、魔女にさらわれた赤ん坊の無事をネガって、王とお妃が浮かび上がらせたランタンが元に始まり、今では街の人全員が、夜の空に一斉にランタンを浮かばせる。この光景は、どこか日本の「灯籠流し(精霊流し)」を思わせるけれども、根本的な違いは、死者を送るそれらの祭りよりも、「私たちは生きているぞ」という、よりポジティブな、「生」を感じさせることにある。

 海に囲まれた街から、一斉に浮かび上がる、人々の「生命」の灯り。街の外に浮かんだ舟から、その一つ一つを見ていたラプンツェルは、塔の中に閉じこもっていた18年の人生よりも、その灯りのひとつとして、生きていきたい、と心から願うようになる。
 「魔法のチカラ」という呪いを解き放ち、ヒロインに一人の人間として生きる勇気を与えるのは、王子様のキスではなく、人々の「私たちは生きている」という「信号」なのである。


 映画を見終えたあと灯りの少ない夜の東京をぼんやりと歩きながら、思ったのは、僕らは今こそ心に灯りをともすべきではないか、ということだった。いつまでも家の中にいても仕方がない。テレビに映し出される映像を延々と見て、自分の無力さに心うちのめされて、部屋の中でうずくまるくらいなら、少しずつでもいいから、自分自身の「普通」を取り戻すことではないか、と思う。
 音楽が好きなら音楽を聴き、漫画が好きなら漫画を読み、ゲームが好きならゲームをしよう。映画が好きなら映画館に行こう。


 被災して亡くなられた方、今も苦しんでいる方を忘れるのではなく、心に留めながらも、本来の自分自身が普段やっていたことを、当たり前のように行うことが、今僕らにできることではないかと思う。
 僕らは、生きている。
 出来ることなら、街へ出よう。ひとりひとりが、心の灯を灯して、僕らは生きていると言おう。いつか、被災した街に、村に、人に、ホンモノの灯りが灯るその日まで。



 街の人々が打ち上げた祈りにも似た灯りが、やがて、部屋の中に閉じ込められていた少女の心を、広い世界に解き放たせるまでを、ディズニーの文法を踏まえながら、軽やかに描いた、アニメーションとしても非常に楽しい秀作です。(★★★★)