監督・脚本:橋口亮輔
「人間にとって一番悪いのは、腹が減るのと寒いゆうことだすわ。」
はるき悦巳「じゃりん子チエ」より
生きている。不思議なもんで。生きている。
生きている歳を重ねるにつれて、だれかの訃報を聞いたり、長年年賀状のやりとりしていた人との連絡が途絶えたり、なんてことがあったりする。人間皆、順調に生きているわけでもなく、なにも失わずに生きている人の方がまれなのかもわからない。身体のどこかが不調が起こるだけで、人は社会生活でひとつハンデを追う。目が、耳が、手が、足が。そして心が。
この社会はふと眺めているだけでは順調に回っているようにも見える。だが、今日もどこかで人はなにかを失ったりしながら生きている。私が、テレビの前で働いて疲れ切った身体をテレビの前で横たえて屁をしている間も、である。
この世界のどこかで。喪失の痛みにのたうちながら生きている人がいる。そしてそのために、何かを「選んでしまう」人が、「ニュース」となって、新聞やネットに載る。
選んだ人間が更なる「喪失」を拡散する。そしてそれを世間が、世界が消費する。そうやって世界は回っている。
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さて、橋口亮輔監督の新作である。長編映画としては実に7年ぶりということになる。
その間に、橋口監督も色々あったようで、心を病んで映画監督としての仕事から遠ざかっていたらしい。関係者から声をかけてもらった関係でワークショップに関わり、そこから生まれたオムニバス作品「ゼンタイ」を作る過程で出会った、無名の俳優3名がこの映画の主演として抜擢されている。アツシを演じる篠原篤、瞳子を演じる成島瞳子、四ノ宮を演じる池辺良の3名。
橋口監督が「いろいろあった」ものが一番投影されているのが、篠原篤演じるアツシである。
彼は妻を突然、通り魔殺人で喪った男である。一人残された彼は、ショックで働けなくなり、そしてしばらくしてなんとか立ち直り、社会復帰しようとしている。耳が抜群にいい事を買われて橋梁点検の仕事についているが、給料は年収100万に届かないほどの薄給であり、精神的にもいまひとつ職場の輪の中に入り込めない。だが、彼の中で喪失の穴と、くすぶる怒りは消える事が無い。そんな犯罪被害者とも言うべき彼に社会は驚くほど冷たい。健康保険ひとつ取るのにも、役人の屈辱的対応にさらされ、怒りがこみ上げるも、暴れることも出来ない。そして通り魔は精神的な疾患を理由に裁判で免罪されようとしていた。
彼はせめて司法を通じて加害者側を罰してもらうために、民事訴訟を起こそうと動き続けていたが、彼が紹介された弁護士たちは一様に彼の話に乗らない。その弁護士のひとりが、主人公のひとり、四ノ宮である。
四ノ宮は笑顔こそ柔和だが、人に対する態度は横柄で、知らぬ間に恨みを買うタイプの男である。彼はクライアントとの相談の帰り道、何者かに階段で突き飛ばされて足を骨折する。その見舞いにきてくれたのが、学生時代からの親友・聡(山中聡)であった。彼は四ノ宮が同性愛者だと知った後も、家族ぐるみで付き合ってくれてる数少ない友人である。骨折した後も、四ノ宮の横柄な態度は直らず、若い恋人からは別れを切り出される。そして、親友である聡ともある誤解から、次第に心が離れていく。
瞳子は雅子妃ファンの専業主夫である。パートなど世間と付き合う時は明るく振る舞っているが、家庭では夫との会話はほとんどなく、姑との関係もいまひとつうまくいっていない。性生活すら最低限の機械的なやりとりだけで回っている。そんな彼女の心を癒やすのが、昔雅子妃を追っかけしてる時に撮った、ブレッブレの雅子妃のビデオであった。
そんな瞳子の前に現れたのは、肉屋の弘(光石研)である。彼のいきつけのスナックで、そこのママ(安藤玉恵)に「美女水」という飲料水を高値で売りつけられ、それを瞳子の家まで持ってきた弘と、彼女は関係を持つことになる。弘は瞳子にあるビジネスの話をもちかけてくる。
橋口監督の目線はそういう、どこか何かが「欠落」し、何かを喪いながら、それを抱え込んで生きてる人で世の中は回っている事、そしてそういう「歯車」がひとつ「欠落」した人間に対して、社会はおどろくほど冷淡である事も逃げずに描いている。
それゆえにこの映画には、ときにどす黒いまでの怒りと、時に身を切るような哀しみがほとばしる。
だけど、それでもこの映画が決して辛いだけの映画になっていないのは、橋口監督は心のどこかで人間が好きであり続けてることと無関係では無いのだと思う。この映画に横たわってるのは人間というものの「おかしみ」である。
いつも暗いアツシを励まそうとして、「お母さんとビデオみませんか?」と提案してくる女子社員、愛人と鉢合わせになって以降職場で瞳子や肉屋に八つ当たりするパート先の店主と妻と、それをなだめる夫、瞳子が売りつけられた「美女水」の被害者になってるのに気づかず、仕事の覚えもいい加減だが、どこか憎めないお調子者の新入社員、成田別居した旦那との離婚調停を相談する女子アナなど、思わず吹き出してしまうような脇役が色を添える。
この映画が決して社会の冷たさだけを描く映画になっていないのは、橋口監督の目線が常に暖かさに満ちているからだ。
弁護士からは見捨てられ、アツシのどす黒い感情と哀しみは、行き場を喪いながら漂い続けているが、それを受け止めるのが、就職先の社長の黒田(黒田大輔)である。彼は妻を殺した犯人への感情のたけを爆発させるアツシの言葉を聞きながら、それでもぽつりぽつりと自分の言葉で、アツシに語りかける。その言葉が、アツシの心を少しだけすくい上げることになる。
社会は、人は、時に冷たく、歯車を喪った人を見放すことがある。だが、それでも社会が人で回っている限り、人の温かさは人を救う。アツシが最後に見上げる青空と、彼が少しだけ救われたことを示すラストカットは、まさに絶望に身を置いた人が見る、希望の光となって観客の心に届く。
文頭の「じゃりン子チエ」のおばあはんのセリフはこういう流れでこの結論になっていく。
どんなに心と身体が追い詰められても。食べれば明日は見えてくる。橋口監督の作品には「食べる」シーンが象徴的に出てくる。人生には誰にでも何かを喪い、パッと不幸を拡散したくなる方向へと「選びたくなる」事がある。だけど、それでも食べて、人の温かさに触れた時、人はほんのいっときでも、救われる。そして「選ばない」ことを選び取って生きていく。その真実をも描いているこの映画は、まぎれもなく傑作なのである。大好き。(★★★★★)
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