虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「R100」

toshi202013-10-14

監督・脚本:松本人志



 松本人志監督作品において、初めてプロの俳優(大森南朋)を主演に置いた作品である。


 脇にも、松尾スズキを始め、多くの豪華な俳優/女優陣を起用する中で、テーマとしては「ひとりのおっさん」が出会う、日常の中で出会うコントのような「イベント」が起こる話という意味においては、つくりとしては全く変わっていないのである。


 松本人志が映画を撮る。
 これまで、松本人志は映画において「すべらない」という呪縛とは無縁で、その世界を描いてきた。つまり、「すべり芸」ともいうべき「すべる」素人の生態を描くことが、松本「映画」の本質である。


 今まで、自身が主演をし、または素人のおっさんを主演にすることで、「すべる」展開を「あえてやっている」というエクスキューズを置いてきた。しかし、プロの俳優となると話は違ってくる。要は、「すべる」ことに「言い訳が利かなくなる」のである。
 「SM」という題材であるが、基本的には「シチュエーションコント」の変化系であって、特に深い示唆があるわけでもない。要は密室だけに限定しないSM行為、というアイデアが先にあって、そこからどのように「意味づけ」していくか、という脚本のつくりである。大森南朋が演じるのも、難病の妻を抱えて一人息子を育てている「特に取り柄もない、大手家具屋の店員」という普通のお父さんである。
 その父が謎の風俗クラブに入会することで、不条理コントのような世界に巻き込まれていく。


 その作り方も、おそらく前作までとまるで変わらないはずである。


 しかし。この映画。プロの俳優を起用する、という段になって初めて、松本人志にある「恐れ」が生まれている。それは「プロの俳優/女優」に「すべらせている」という恐怖である。


 僕はこれまで松本人志が撮る「映画」を肯定してきた。
 それはなぜかと言えば、決して撮るべきものに対して「ブレ」がなかったからである。そして「撮ってきたもの」に対してなんらエクスキューズを設けなかったからだ。たとえ「つまらない」と言われたとしても、「これが俺の世界である」と言ってはばからなかったからだ。「理解してくれる人間など少なくてもいい」という強さこそが、松本人志の個性だったはずだし、映画監督としての特異点でもあったはずなのだ。


 しかし、今度の作品は後半に「映画内映画」という「メタフィクション」な構造へと移行してしまう。


 その瞬間。俺は「ああ・・・」と思った。それだけはやっちゃだめだろう。どんなことをやってもいいが、それはどんな言い訳をしても「逃げ」だ。
 大森南朋松尾スズキ、その他錚々たる俳優/女優たちに対して、「すべらせてごめんね。わかってやってるんだからね。」と言い訳するがごとき、「あえてすべってる」「理解してもらいにくい笑いをやってる」と映画の中で言及する。これは、だめだろう。そこにそんな言い訳はいらないよ。


 松本人志個人としての、すべるという行為に対する「ハートの弱さ」が悪い方に出た。「すべらない」芸人としてのプライドと「すべる」映画の中でやりたいことを天秤にかけて初めて、その「すべらないプライド」が「すべる映画」、いやさ「すべらせている映画」に対して耐えられなくなったんだと思うしかない。
 そりゃあ芸人としては「すべらないダウンタウン松本人志」だとは俺も思うよ。50歳にして今なお芸人としての感度は一流と言っていいレベルの人だと思うよ。だけどさ。


 4作目まで作り続けてきて、その世界に対して「わかってやってる」みたいな逃げ道はいらないんだよ。その逃げ道を捨てなければいけないんだよ。作り手が「面白い」と信じなくてどうするよ。これこそが、「俺のやりたいこと」なんだと信じなくてどうするよ。その言い訳こそが演者たちに対して本当に失礼なことだと思うのである。
 そんな言い訳するなら、一度でもいい、本気で「すべらない」映画を作るしかないと思う。


 監督としてブレずに逃げない。その姿勢を最後まで示せなかったのがとにかく「痛い」と思うのである。彼の映画の一ファンとして残念である。(★★)


 あとま、一応オチについて。
 「父がM」というキャッチコピー。父親がM(マゾ)に目覚め、そしてあの「MがSを宿す」というオチは、詰まるところ「マゾに目覚める」ことと「M(=)の不在を埋めている」こと、を掛け合わせた考えオチだと思うのだが、どうでしょう。