虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「セトウツミ」

toshi202016-07-21

監督:大森立嗣
原作:此元和津也
脚色:宮崎大/大森立嗣


 ここ最近見た映画が立て続けに「暴力」によって人が死んだり痛めつけられたりする映画だった。


 自分は、暴力というものへの忌避感は基本的に強い。
 俺自身いじめとは無関係とはいかない時期はあったんだけど、高校生活はその地獄から抜け出してちょっと穏やかに過ごしていた。ただ、そのいじめによって心がやや不安定な時期でもあって、もやもやしたり不安だったりもした。けれど、ただ、なんて言うんだろう。放課後の時間だけはその不安とは無縁で、楽しかった。
 一方的に痛めつける暴力の映画は、時折ボクにいじめと関わっていた時代の辛い記憶を呼び起こさせる。いまは遠く見えるその記憶も、時折鮮明に甦る時があって、その時はちょっとつらくなることもある。そして、大人になってからも、暴力とは無縁とはいかなかった自分は、暴力というものへのあこがれは微塵もなく、ただ「痛み」を感じるようになっている。暴力とは相手の意思を力で屈服させようとすることである。生々しい暴力を見ると、どうしても引いて見てしまう自分がいるのである。


 高校時代は基本的にそういう暴力とは無縁であった。そういったとは無縁にただ友達とくだらないことを喋っている。その時間だけは今も、すごく心に残っていてそのことだけで、過去のさまざまな事が少しずつ自分の中で和らいでいくような、そんな気持ちになっていた。なんであんなに、意味も無いことを喋り合えたんだろう。今となってはよくわからない。



 この映画の主演は池松壮亮菅田将暉。言わずと知れた、実力、人気共に兼ね備えた今をときめく当代きっての若手俳優ふたりだ。
 

 その二人がこの映画では何をするのか。


 なんもしない。


 いや。している。喋っている。ダベっている。



 二人はともに高校二年生。内海想(池松)と瀬戸小吉(菅田)は放課後川べりで待ち合わせては、だらだらと気の向いたときに無駄話を始める。
 そういう映画である。瀬戸と内海がただ喋る映画。だからタイトルも「セトウツミ」である。


 原作は此元和津也のコミック。監督は「まほろ駅前」シリーズの大森立嗣。
 撮影期間はわずか10日だったらしい。そらそうだ。基本川べりで喋ってるだけだし。だけど、そのやりとりを如何に「漫才」にせずに「映画」にするか。その間の取り方、やり取りする二人の空気。それがまるで本当にただダベってるように見えるように演技する。実はこれが意外と難しいのである。コント風、漫才風に見せるのは実はそれほど難しくない。どこまで「リアル」に「くっちゃべってるだけ」に見せるかが、この映画の「売れっ子若手俳優」二人に課せられた演技なのである。
 ふたりは見事、適度な距離感を持つ友人同士の「空気」を絶妙な間の演技によってスクリーンに放ってみせるのだ。


 話してることは他愛もない。言葉遊び、好きな女の子に送るメールの文面、猫をめぐる瀬戸家の事情、今夜の家の晩御飯。思いついたままに話題は転がり、やがてそこに「オチ」がつく構成。そんな話が数編入っている連作短編方式である。
 なにもないけど、なにかが起こる。でもそれは、とても他愛もなく、どうでもいいことでもある。


 この映画を見ていて、俺はとても不思議な気持ちになった。ただだべるだけの話。しかしそれはとても身に覚えのある話。当然だ。高校生時代、自分が毎日のようにやっていたこととなんら変わりがないからだ。


 なにもない。なにも起こらない日々。意味もなけりゃ、生産性もない。何の役にも立たない。達成感とも無縁。ただ、いたずらに時間をつぶすだけの会話。
 しかし。そんなふたりのやり取りをただ見ているだけで、じわっと心の中に不思議な感情がひろがっていく。今思えば、その時間もまたかけがえのない日々だったのだ。
 「なにもない」ルーティーンが積み重ねって行く。そんな青春もある。遠き「あの日」を思い起こさせる。これもまた、「映画」の「魔法」なのである。大好き。(★★★★)