虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ハゲタカ」

toshi202009-06-25

監督:大友啓史
脚本:林宏司
原作:真山仁


 実はかなり鋭い狙いを持った企画だと思う。



 経済を扱う映画をエンターテイメントとして成立するのがムズカシイ時代だ。なにより経済という「訳のわからぬバケモノ」と切り結ぶ虚構を描くのは、実はかなり厳しい。ドラマ版のDVDーBOXを買って見てからこの映画に臨んだのだが、このドラマの世評が高いのは、社会派でなおかつ娯楽作品が成立しにくい時代において、「外」から見た日本企業の価値を認めた上で、その「中」にある停滞した「風土」に風穴を開けて再生を促す、という形で、カタルシスのある物語として成立させた点にある。
 「ハゲタカ(・ファンド)」という蔑称は、日本を突然襲った怪物性と日本の企業そのものを金で買い叩くかのようなイメージからきているわけだが、実際は「価値を高めて売り抜ける」わけなのだから、必ずしも悪い側面ばかりではない。ドラマはその「ハゲタカ」という言葉のネガティブさを逆手に取って、善悪定かならぬ「外資のイヌ」にも見えた男・鷲津政彦(大森南朋)が、実は「情熱」を秘めたダーク・ヒーローである、というドラマとして描いてみせたのが新しかったわけだが、今、「ハゲタカ」という「世界観」を借りて、「今」を切り取ろうとする製作者たちの意図は、なるほど、と思った。


 ただ、ネックなのは、ドラマ自体があまりメジャーというわけではないことと、「ハゲタカ」(バイアウト・ファンド)というキーワード自体が、時代とともに古びていた部分がある。今回の映画版が中国を題材としたのは、「ハゲタカ」というドラマの世界観で、アジアの中での経済的な優位性が揺らいでいく日本とその再生の萌芽を描く物語を成立させるためには、強大な力を持つ「敵」が要る。「ファンド・マネージメント」による企業買収を行っても古びなくてリアルさを感じさせること、つまり「今」を切り取るには格好の存在ということがある。
 ドラマ版はエリートバンカーの茂野健夫(柴田恭兵)と、銀行の元後輩で外資の手先の鷲津との対立を通して、茂野が「かつての自分」が言った言葉に復讐される物語でもあったわけだが、今回は鷲津にとっての「かつての自分」が、映画版に登場する「新しいハゲタカ」劉一華(玉山鉄二)である。ドラマ版は、言って見れば、鷲津がかつての茂野の立場に変わる物語でもある・・・はずだった。
 しかし、問題が起こる。「リーマン・ショック」による「世界同時不況」だ。


 「今」を描くには、この問題は避けて通れないと判断した制作陣は、脚本の大幅な書き直しを余儀なくされた。リーマン・ショックを「物語のキイ」と描いた点は、アイデアだと思ったが、その結果、エンターテイメントとしての落としどころとしては、ブレてしまった感は否めない。
 また、マネーゲームだけの物語を描きたくないという信念が、「派遣労働者」・守山(高良健吾)と「エリート」劉一華の関係に表れているわけだが、ただこれはあまり巧くいってない。守山は鷲津にとっての、西野治(松田龍平)になり得た男なのだろうし、劉の隠された生い立ちからくる守山への「愛憎」からの生まれた関係性・・・という見立てなのだろうし、当初の「中国VS日本」という構図がより明快だったであろうリライト前の物語では重要なファクターだったのだろうが、こちらではやや尻すぼみに終わっている。


 結局のところ、「今」を描く、という制作陣の志に「リーマンショック」が直撃した格好で、映画自体のバランスはかなりいびつな映画になったのは間違いない。外国の巨大資本にハゲタカなりのやり方で渡り合った結果が、皮肉にもリーマンショックとそれによる世界同時不況を利用する形になり、結果的に誰が勝ったのかすらよく分からない物語になってしまった。
 しかし、現状に合わない物語をそのまんま提示することをよしとせず、映画を見た人が「今」の物語として共有できるものにしようとした情熱の残滓を、感じることが出来たのは非常に好ましく思いました。そのいびつさや不器用さも含めて、この映画が好きです。(★★★)