虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ディア・ドクター」

toshi202009-06-27

監督・原作・脚本:西川美和


 ぼくが映画感想を書いているのは、自分がニセモンであることを知るためである。
 この映画を見て、そうか、そうだったっけ、と思い出した。俺。ニセモンや。


 とある村で一人の医師が失踪する。診療所をふらっと出たきり戻らないのだという。診療所から持ち出したものもなく、なくなっていたのは彼の「足」である原付バイクだけであった。田園に脱ぎ捨てられた白衣が発見されるものの、行方はようとして知れなかった。刑事たちは男について捜査を始める。
  その男・伊野(笑福亭鶴瓶)はその村唯一の医師だった。4年前に前任者が他界し、村長が彼と健康診断で出会い雇うことになったのだという。東京の医大を卒業して研修医としてその村にやってきた相馬(瑛太)は、大学病院にいたときとは違う世界に驚く。ひっきりなしにやってくる患者のすべてを看護士の大竹と二人で相手し、呼び出されればすぐに駆けつけ、診療所に来たがらない患者もみずから出向き、健康診断を行う。伊野の昼夜を問わない仕事ぶりに、相馬も徐々に傾倒していく。
 だが、伊野はある未亡人(八千草薫)と共有した「嘘」を守るために、思わぬ苦境に立たされていく。


 嘘から出たまこと、という言葉が伊野という男の存在そのものである。


 人はなんらかに「なろう」とすればするほど、自分を「偽者」だと思うのだと思う。伊野という男の苦悩は、常に自分は「足らない」人間であるということだ。その苦悩は医者であろうとする限り彼の背後にはりついている。彼はちょいちょい「それ」を吐露するのだが、村人や「部下」である相馬も、それに耳を傾けない。「足らない」と思うからこそ、彼はより本物であろうとする。そして村人は、より彼を尊敬のまなざしで見る。しかし、彼が抱えた「重大な嘘」が、彼の「仮面」をひっぺがすことになる。
 では、彼にとっての「本物」とはなにか。それが最後の最後で明かされる。
 それが彼自身のコンプレックスの「源流」である。でもその「ホンモノ」もまた、「本物」になりたかった「ニセモン」とちゃうやろか、と僕は思うのである。人の思う「ホンモノ」が、自分の「本物」とは限らない。人が「コンプレックス」を抱えるのは、彼らが思う「本物」と「自分」を比べてしまうからだ。


 それでも、自分の思う「本物」と本気で向き合うのも、また人間である。まっこうから自分の思う「本物」と向き合えば、自分は「まだまだ偽者」なのだと思うものだ。西川美和「監督」にとってもそうなのだろう。彼女はパンフレットのインタビューで、自分が「監督」である違和感、「偽者」なのではないか、という感情からこの作品は出発している、ということを語っている。それは「彼女」が「本物」の監督になろうとすればするほど、強まる感情であろう。本作はその「本物ではない(かもしれない)自分」という監督の、自分自身への違和感が、ストレートににじみでる作品となった。
 しかし。それは「物語る」人々、なにかを「目指す」人々すべてが持っているものなのではないか。自分は本物なのだろうか、「まだ足りない」のではないか。人はそうして努力する。天才と呼ばれる人でさえ、いや天才と呼ばれる人ほど、より「自分の足りなさ」を知っているのではないか、と思う。そして僕は「ニセモン」である立場から、「本物」になろうとあがく人々を、尊敬のまなざしで見つめ続ける。「足らない」からこそ見える風景もあるのである。その「常に足らない」ボクから見れば、西川美和はより一歩、「監督」としての高みに近づきつつあるのではないか。と、思うのである。
 笑福亭鶴瓶は、「ニセモン」でありながら、「本物」であろうとした男の、その笑顔の裏に隠された哀しみを、たたずまいそのもので体現した。その姿は、「なにかでありたい」我々の姿ではないか、と思う。傑作。(★★★★★)