虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「天然コケッコー」

toshi202007-09-06

監督:山下敦弘
脚本:渡辺あや
原作:くらもちふさこ


 原作未読。2回ほど見ました。


 右田そよは中学2年生。小中学校合わせて7人しかいない島根県にある分校の最年長。そんな学校に東京から、転校生がやってくる。大沢広海。はじめての同級生の男の子。しかも顔立ちの整った「イケメンさん」。浮き立つ気持ちを抑えきれないそよだったが・・・。


 てなわけで。
 異性をを意識するようなこともないまま、ずっと「年長さん」だった少女が、はじめて異性のオトコノコと出会うことで、意識する心に気持ちが追いつかない様を描いていく・・・のだけれど。面白いなと思うのは、そこに恋心を彼女がまったく気づいてない、というところなのだと思う。彼女は基本的に「しっかりモン」だけれども、自分のこころがどのようなところにいるのか、具体的に把握できていない。
 だから恋してる自分を深く意識もしないし、恋してる自分を消化し切れていない。


 という原作にあるのであろう「そよ」という少女の純粋さを、脚本の渡辺あやはリアリティを殺さぬ程度に拾っていく。そこにあるのは、「田舎の上澄みを掬うファンタジー」としての少女漫画のリリカルさを、あえて実写映画の枠内できっちり成立させよう、という試みなのだと思う。リアルとリリカルの境を、それはものすごく危うい、綱渡りのようなバランスで、ほんとにびっくりするぐらい上手く脚本の中で成立させているとおもう。
 つまり、彼女の脚本上では、「ありえないほどリリカル」な天然少女の物語が、実写で撮ってもきちんと物語の枠内でおさまるように組み上がっていて、山下監督はそれに一切逆らうことなく撮っているのだと感じる。そしてそれは間違いなく、この映画の世界観のクオリティを一定に上げている。
 主演の夏帆ちゃんはかっわいくて、微エロに撮れてるし、子供達もそれぞれ魅力的ないい顔してて。演出もかなりナチュラルでありながら、どこかファンタジーな世界を創出させるために腐心していたと思うのだけれど。


 ただ、問題は。原作を叩き台にして、渡辺あやを通して創出された世界観が、山下淳弘という監督の目を通して描かれたとき、その「危ういバランス」はどうなるのだろうか。ということだ。そこにこの映画が抱える、アンビバレントな要素が見え隠れする。つまり、右田そよから見た世界を描きながら、そこに「男の目線」から見た「リアル」が時折迷い込む。
 実はそれがこの映画が取るべき、バランスを揺らがせている。


 例えば。
 そよに密かに好意を寄せている純朴な郵便局員のシゲちゃんという青年がいてですね、夏祭りの日。シゲちゃんがそよに岡惚れしていることを知っていた彼女の友人2人が、仲をとりもとうと、わざわざ二人きりにする、という展開がある。
 山下監督は、そのシゲちゃん役に、わざわざ廣末哲万という、濃ゆい顔の役者さんをキャスティングするんだけど、もうね、こいつが明らかに「怖い」もしくは「キモい」んですよ。そらこいつと二人っきりにされたら、中学生の女の子は泣き出すに決まってる的な顔と演技をするんですけれどね、そのキャラ自体は別に「キモキャラ」でもなくて、普通の青年、という扱いなわけです。。
 あの場面は、嘘でもええから、もっとすらっとしたいい人風の役者が出てきて、昔なじみで優しくて明らかにいい人なのに、二人きりになった時に「そよ」ちゃんは泣いてしまう、あれ?なんで?、という、非常に繊細な場面だと思うんだけど、あれだと単純に「怖くて泣いてる」ようにしか見えない。


 つまり渡辺あやが想定した「バランス」と山下監督にとっての「バランス」が、微妙に食い違う場面がいくつかあって、その時に「あれ?」と思ってしまうことが多かったですかね。どうしても男目線から見てしまうと、「この娘はじらしやがって、わざとやっとるんかい」的な行動が多いわけです。
 だって「健康な男子」だったら、どう考えたってあの年頃なら「キスより先」を考えてしまうわけじゃないですか。それが「男子のリアル」というものでしょ?そよちゃんにしてみたら「キス」が「王子様」大沢くんとの「せいいっぱいのふれあい」になってるわけですけど、男子目線からみたら明らかに「生殺し」じゃないですか。
 大沢君ジャケットが欲しいから、チューさせてあげてもいい、とそよちゃんが言って、神社で、大沢くんと初めてのキスする、とっても繊細なシーンがあるんだけど。夏帆みたいな容姿の可愛い子と、無人の神社でチューですよあんた。「よく犯されなかったよな」とかそういう、品性下劣な考えを俺に起こさせるような場面が時折、ぽん、とでてくるわけ。「大沢くん(ある意味)すげえ!」って思ったもん。


 でも、そんな考えを起こさせたらダメな映画だと思う。つまり、どこかでこの映画はセックスとは無縁のファンタジーを表出しないと、成立し得ない映画だと俺は思う。それを渡辺あやはものすごく腐心してると思ったし、山下監督はなるべくその意に沿ってはいると思うんだけど、やっぱり、ふたりのさじ加減が微妙に食い違う。
 一番は大沢君のキャラの造作だと思う。彼、良くも悪くも「等身大」キャラなんだよな。明らかに顔は整ってるけど、中身は東京育ちの普通の少年、というキャラクターになってる。その「普通の少年」が夏帆と「キス」したいと願うほど、彼女を好きなわけじゃないですか。そうなったら、当然考える最終目標は・・・ね?うん。


 大沢君のキャラクターがもう少し、中性的というか、普通とは違う感じにしても良かったのではないか、と思う。そうしないと、夏帆並にかあいい「そよちゃん」が自分を憎からず思っている事実に、いつ理性が崩壊したっておかしくないじゃないですか、って思うのは俺だけ?
 その辺のバランス取りを完璧に取るか、突き抜けて漫画的な世界で展開するかしないと、この映画はどうしても、「あり得ない純粋」を無理矢理押し通した映画に見えてしまうのが、俺の中でひっかかってしょうがない。そのことが見ていて、とても惜しい映画であると思いました。(★★★☆)