虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「カンフーくん」

toshi202008-03-29

監督:小田一生
脚本:大地丙太郎
アクション監督:谷垣健治


 ナチュラルボーンファイターの精神を持つカンフーの天才児・カンフーくん(チャン・チュワン)は、三十六房の試練の最後に師匠の気に飛ばされて、日本にいるはずの「本当の敵」を探しにやってきた!そこで彼が出会ったのは!カンフーの達人でラーメン屋「ニュー幸楽」の女主人、泉ちゃん(ピン子)であった!!彼は泉ちゃんの孫娘やその同級生たちとともに、「本当の敵」を探すのだが!・・・


 某ラッパーが映画コーナーで口汚く痛罵し、まじめな映画ファンをことごとく怒らせている「カンフーくん」であるが、おれはね。これ大好きなんだよね。困ったことにね。
 ぼかあ、小田一生監督のことを結構買っているのだ。彼の才能は、「馬鹿なことを真剣にやれる」ということなのではないか。「笑う大天使」を見た時も思ってた。このくらい突き抜けて頭悪い映画を撮る人間が、日本映画にいなくちゃ駄目だって思う。矢口真里が小学六年生だと言い張って同級生づらしてたりする、なんて世界を大真面目にやってるのは日本でも小田監督ぐらいだろうかとおもうのだ。
 映画好きを名乗る人間はなんだかんだで真面目なので、自分の「教養」の部分を突かれないどころか、それを「おちゃらけ」として扱う映画を激しく憎む傾向にあるような気がするのだが、小田監督はその映画ファンを激怒させかねない「おふざけ」の方に全力を注ぐ作家なのではないか、と思うのだよな。
 大体、ナンの因果でカンフー少年の話を大地丙太郎に振ったのかと言えば、それは「カンフー教養主義」とは無縁のところから映画作りを始めたかったからではないか。その上で、チャン・チュワンくんの肉体技と「ナチュラルボーン・ファイター」な性格によって一本筋を通しながら、徹底的に不真面目に馬鹿馬鹿しい世界を作ろうとする。


 大地丙太郎が監督してきたテレビアニメ「十兵衛ちゃん」シリーズや「レジェンズ」などの流れを汲む映画である、という認識があれば、この映画のせりふ回しの独特の加減も、安直なキャラクター群も理解しやすいはずなのだが(無理か)、このいかにもアニメでしか通用しないようなナンセンスな世界観を実写として取り込むことで、不真面目な馬鹿映画を作る土壌が生まれる。
 確かに大地丙太郎は、考証をいい加減にする人である(注:原作アリは別)。しかし、その「娯楽教養主義」と無縁なところにいる作家である、ということでもある。泉ピン子なんて、すでにカンフーの達人で、構えている店の名前が「ニュー幸楽」という安直ぶり、黒文部省なんていい加減な名前の悪の組織でひたすら押し通すなんて、脚本書けるの、大地丙太郎しかいない。
 そのおふざけに怒るひとがいるのもわかるし、「ふまじめだ!」と怒る人がいるのもわかる。だが、娯楽映画というものが、真面目に作られねばならない、というその押しつけは、了見を狭くするだけではないか。「おじゃる丸」にだれが「リアル」を求めようか。いい加減だからこそ、おじゃる丸は今も現代にいるのではないか。不真面目に真面目になってなにが悪い、と俺は思う。


 小田一生は「チャウ・シンチー」に影響を受けている人だとは思うが、シンチーのような「カンフーがすべてを肯定する」映画を撮ろうなどとは微塵も思っていないと思う。香港映画の教養はシンチーに遠く及ばないかもしれないけど、俺はそういった「いい加減さ」も含めて、かなり自由に「カンフー」を、自分の得意分野であるVFXと絡ませることで自分の作りたい「不真面目な」世界観に取り込もうとしているように見える。ゆがんでいるかもしれないが、それもまた「カンフー」への愛のあり方なのではないか。


 「カンフーくん」は、そらあカンフー映画としては三流以下の映画かもしれない。だけど、だけどそれでも、おれは不真面目を真剣に取り組む作家として、小田監督の作品を愛してやまない。
 よって、真面目な人、おちゃらけがきらいなひと、ナンセンスなんてもってのほか、という人には勧めないけれど、「笑う大天使」の阿呆にもほどがあるSFXの使い方を喜んだ方、アニメ作家・大地丙太郎のいい加減さを受け入れられる人にはお勧めしておきたい。俺は、大好き。(★★+★★)