虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「舟を編む」

toshi202013-05-11

監督 石井裕也
脚本 渡辺謙作
原作 三浦しをん


 言葉は「今」を伝える。


 辞書は言葉の海に漂う一艘の舟だとこの映画では言う。「うん。そうか。」と思いながらも、「そうなのか?」とも思う。言葉というのはムズカシイ。
 言葉の発明は時に、新たな「概念」を発明してしまうことがある。言葉は物事に当てる「光」のようなものだ。それによって我々は「人」「物」「事」などを「認識」する。「光」「闇」から始まる我々の「世界」。それらはたゆやう言葉によって複雑に構成されている。僕らの感じている「世界」の見え方は、言葉によって規定され、それが人の「世界観」を形作る。
 あなたと私。同じ世界の同じ時代を生きる我々ですら「見えている世界」は同じようで、違う。それこそが多様性であり個性だ。それを形成するのは「言葉」だと思う。


 「辞書編纂」という題材に着目し、長い時間を掛けて一つ一つの「単語」と向き合う作業。そのあまりに長い工程と期間を要するために、時に「金食い虫」と忌む人もいる。そんな地道で「仕事」に丁寧に寄り添い、その営みに対する限りない敬意を感じる手触りがとてもステキな映画だと思う。この映画は13年という長い期間、言葉と向かい続けた青年・馬締 光也を主人公に、彼が携わった一冊の辞書とそれに関わった人々の「人生」を織り込みながら、辞書が完成するまでの軌跡をたどる。その辞書の名前は「大渡海(だいとかい)」という。
 この辞書のコンセプトは「新語・俗語・誤用も現代語も「言葉」として取り扱う」ということである。


 印象的だったのは加藤剛演じる辞書づくりの国語学者・松本朋佑が「合コン」に行き、用例採集をしてきた、とのたまう場面や、馬締とともにハンバーガーショップで女子高生の言葉に耳をそばだてる場面などである。


 「うーん、なるほどな」と納得しかけるものの、実はこれが違和感の萌芽だった。たとえば「今」このとき。言葉は我々の中で「自身の規定・用法」の中で使っている。だが、この先。その言葉の意味は変容していく。その時に、いまの「時代」に生まれた言葉。たとえば時代によって変遷する単語、女子高生が使う言葉までこの映画では「用例採集」していくのだが、それはどうなのだ。
 女子高生の言葉、新語、俗語、流行語、オタクやマニアの間でのみ通じる隠語や、ネット用語など、あっという間に「生まれては消えていく」言葉は多い。今の女子高生は「ちょべりぐ」なんて言わないのと同じようにだ。今、この時、使っている言葉はあっという間に古びる言葉でもある。
 その数多ある言葉の中で、人々の中に生き残るのは「強い」言葉だ。


 映画で描かれる、この物語世界の中心とも言うべき「大渡海」という辞書への違和感はそこにある。現代語なんて「現代用語の基礎知識」に任せればいいのではないか。ファッション用語なんてあっという間に意味が変わるのだし、そのたびに改訂するくらいならば、取り扱う必要はないのではないかなどと思ってしまった。

 僕らは言の葉の海辺にいて、打ち上げられた言葉を使って生きている。その言葉たちは確実に海の底へ消えていった言葉たちとは違う強さを持っているはずである。時代を超える言葉は実はそれほど多くない。
 この映画は長い年月をかけて「言葉と向き合う」人々の、その営みは世代を超えて続いていくことを、大きな愛情をもって描いた映画である。ゆえに、大変面白かったのだけれど、その「大渡海」という「映画の中心」への違和感が大きく頭をもたげてしまったのは誠にもったいないと思ったのでした。(★★★☆)