虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「さや侍」

toshi202011-06-11

監督・脚本:松本人志


 この映画の主演を、「働くおっさん劇場」に出演していた素人の野見隆明さんにしたと聞いたとき、まるで驚かなかった。決断したという事実には多少のオドロキはあったけど、いままでの松本人志の映画から自分が感じていたことから類推するに、それはまるで必然だと思ったからである。
 なんと言っても、ぼくは前作「しんぼる」感想でこう書いている。


「しんぼる」感想
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20090916#p1

 「大日本人」もそうなんだけど、この映画の主演は、究極的に言うなら、「素人のおっさん」であるべきなんだよな。誰やねんお前、っていう。
 そのおっさんが本当に閉じ込められていて、松ちゃんは監督として外から見て「その反応」をみてゲラゲラ笑っている、くらいの役回りが松ちゃんの理想だったと思うのだ。だって、いくら「おっさん」を演じても、「松本人志」という記号は容易には脱げないわけじゃないですか。


 さて。
 冒頭、主人公のタコ藩藩士、野見は脱藩して、刀のさやだけを持って必死に逃げている。刀という武士のプライドすら捨てて、しかし、そのかけらであるさやだけは捨てることは出来ない、半端なおっさん侍は逃げている。その後ろを小さな娘がついてくる。逃亡の果てに侍のおっさんは追っ手につかまり、とある刑罰にかけられる。それが「三十日の業」である。「母親の死をきっかけに笑わなくなった若君を、30日以内に笑わせなければ切腹しなければならない。



大日本人」感想(でっかいおっさんのちっさい人生)
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20070602#p1


 松本人志は「大日本人」で映画デビューしてから、一向にブレてない
 松本人志が描こうとしてきたものは何かと言えば、一見、面白くもおかしくもない男。おっさんである。特殊な状況に置かれただけの、平凡な、もしくは平凡以下のおっさん。電気あびると大きくなれるだけの、おっさん。チンコだらけの部屋に閉じ込められたおっさん。そして。今度は、期限以内に笑わない子どもを笑わせなければ切腹させられるのに、いろんな芸を考案してはひたすらすべり倒すおっさん侍である。


 しかし、この映画では、いままでの作品と違う点がいくつかある。「素人のおっさん」を主演に配して、松本人志自身をカメラのフレームの外から出したこと。そして、おっさんには「付いてきてくれる存在がいる」ことである。


 この映画が面白いな、と思うのは、松本人志がフレームから外れたことで、結果として、いままでの中で、もっとも「松本人志」という人のパーソナルが非常にストレートに現れたことにある。松本監督はインタビューで、如何に「野見さんをテンパらせるか」という演出を施して、主演のおっさんの頼りなさを、脇を固める俳優・女優陣でカバーするという方法を取っている、と言っている。
 そんな中、松本人志監督が全幅の信頼を置いたのが、野見の娘役・熊田聖亜である。当初、松本監督は、主演を素人の野見さんだけで映画を作るのは心許ない、という理由で、「子連れ」にしようと決めていた。しかも、最初は「息子」にしようかと思っていた。それが「娘」にしたのは、キャスティングの際、「うまい子役は誰か」という話になったとき、彼女が候補に挙がり、結果彼女に惚れ込んでしまったからである。
 消極的に子役をキャスティングしたはずの、彼女の存在は、松本監督にこの映画のテーマそのものを変えてしまうほどの影響を与えた。もっと言えば、松本人志が考える、実の娘にこうなってほしい、という理想像を重ね合わせて、アテ書きすることになる。
 初めは「おっさん」目線からつむいでいたはずの物語は、いつしか娘目線から父親を見つめる物語へと転換を遂げている。これは意識的なのか無意識なのかは分からないが、おそらく、娘目線から見た「自分」を野見に投影しはじめたのであろう。「おっさん」に寄り添いながら彼の奮闘を見つめていた娘は、最後に「なさけない父親」が最後に行うある決断を、彼女は見送ることになる。そして、父親の目線から「娘」への思いが最後に弾けていく。


 松本人志作品としては決してブレていないにも関わらず、本来あるべきキャスティング、そして、本来入れるつもりはなかったキャスティングからの影響によって、映画は変容を遂げ、松本人志作品にしては映画の骨法に忠実な、そして恥ずかしげもなく愛情をドストレートに叫ぶ、エモーショナルな娯楽映画になっていったことは、非常に面白い。今までの松本作品が苦手な方にも、とりあえず一見してほしい映画になっている。大好き。(★★★★)