虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「悪いやつら」

toshi202013-09-22

監督・脚本:ユン・ジョンビン


 「人は悪を為しながら善を行い、きらわれることをしながら好かれたいと思っている。」ということを「鬼平犯科帳」で長谷川平蔵が言っていたことがある。

 ゆめゆめ人というものは、善や悪、ものの好悪だけでは推し量れぬものであり、その境界線を飄々と越えてしまうものである。

 この映画のタイトルは「悪いやつら」ということであるが、それはあくまでもレッテル上の話である。家族のために金を稼ぎ、立派な息子に育て上げる。これは「善」である。しかし、それを為すために「悪事」を働いたらそれは「善行」になるのか否か。
 こういうところに、人間という存在の難しさがある。


 この映画の物語の端緒は、「父母を敬愛し、言うことを素直に聞く」という韓国という国の文化によってである。いわゆる儒教社会というヤツである。
 元々、税関職員として働きながら、集団でもらった袖の下を隠していたグループに属していたのが、チェ・イクヒョン(チェ・ミンシク)という男である。どうしても誰かが詰め腹を切らざるを得なくなった時、扶養者の数によって彼がその役になってしまった。しかし彼にも妻子はある。
 彼は元々人好きのする男であり、良家の出身であるプライドから妹の結婚のためになけなしの貯金をぽんと投げ出すような男である。そんな男が安定した公務員という職を失い、さてどうするか、という時、彼はひょんなことで手に入れた覚醒剤を裏社会の組織を通じて日本に横流しすることを思いつく。
 その時に出会った裏社会の若きボス、チェ・ヒョンベ(ハ・ジョンウ)が遠い親戚であることを知った彼は、家系図をなぞりながら、ヒョンベの父と接触。その父親にヒョンベを諭してもらい、彼と同等の立場になるのである。この2人の出会い方が、韓国独特な感じがして面白い。



 ヒョンベという男は、荒事慣れはしているものの、若い頃に裏切りに次ぐ裏切りによるトラウマから、人を信頼することが出来ずにいた。彼には荒事を任せる手下は大勢いたが、片腕と呼べるような人物を作れずにいた。
 そこでヒョンベは、やくざではないイクヒョンと手を組み、イクヒョンもまた、やくざでも堅気でもない「バンダル(半端もの)」として裏社会と絡みながら、その生来の人好きする性格と、コネクションを使った交渉術によって裏社会でのしあがろうとするのである。
 やがて、ヒョンベはイクヒョンを信頼し、大叔父として慕うようにまでなるのだが、2人の蜜月は意外な形で瓦解することになる。


 そして、時代は移り、ノ・テウ大統領による「犯罪との戦争」により、警察による暴力団に対する取り締まりが激化。2人は生き残りを賭けた戦いの渦中に身を置くことになる。



 俺は人には好かれない。そう思ってきたヒョンベに降ってわいたように生まれた「信頼に足る」大叔父。しかし、彼が力を持ち、やがて組織内で発言権を持ち、そして時に、ライバルとも言うべき男と接触するのをみるにつけ、彼の中にある「疑心」と、ヤクザとしての「プライド」が頭をもたげてくる。
 その時、彼がイクヒョンにしでかした行為は、彼への「愛情」の裏返しでもあったが、それが決別を決定的なものにしていく。「好かれたい」と思う。「信頼したい」と思う。だが・・・それが出来ない。


 裏社会に生きてきた強い肉体と精神力の内に潜む繊細さが、「やくざでもない」男の「強かな生き様」に対して「喪うことの恐れ」を抱いた時、一気に吹き出した。彼は結果、「力」でイクヒョンを押さえ込もうとするのである。


 「悪を為しながら善を為し、好かれたいと思いながら嫌われることをする。」人間とはなんともはや、ままならぬ生き物である。そしてその矛盾は、時に人と人を決定的に引き裂く。
 「悪いやつら」というレッテルの中にある、人間の中になる当たり前の情動をあぶり出し、そして描ききる。この映画は、ただ「痛み」だけを描くバイオレンスアクションとは一線を画す、人のままならなさを真摯に見つめた人間ドラマとして帰結するのである。(★★★★)