虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「マジック・マイク」

toshi202013-08-07

原題 Magic Mike
監督:スティーブン・ソダーバーグ
脚本:リード・キャロリン


 この間、久々に地元の花火大会を見に行った。いつもは閑散としてるのに、その日だけは親の仇のように人が集まった河川敷でぼんやりと花火を見ていると、高揚しつつもどこか寂しさを抑えきれない。終わった後のなんともいえぬ寂寥感は筆舌に尽くしがたい。
 高揚とやがて来る奇妙な寂しさ。祭りや花火は、その心のアップダウンがある気がする。夢から覚めて、ふと気がつく、ここは祭りの前から続く「現実」なのだ、と。


 さて、この映画である。


 マイク(チャニング・テイタム)はつきあう女性には事欠かない青年実業家とうそぶく青年。アダム(アレックス・ペティファー)は社会不適合者のアメフトで将来を嘱望された元大学生、今はさえないザ・無職の19歳。
 アダムとマイクは、建築現場で知り合ったが、職場でアダムは泥棒の疑いをかけられて速攻でクビになる。「ゲーム関係の仕事で稼ぐ」などと言い出すアダムに、同居する姉・ブルック(コディ・ホーン)もあきれ顔だ。
 その夜、アダムは夜の盛り場へと繰り出すが、その時、マイクと再会する。マイクは、アダムをクラブに招き入れ、彼を「試す」。そのテストに上々の成果を収めたアダムは、マイクに連れられて、同じ町にあるとある場所へやってくる。
 そこは、毎夜女性たちが食い入るように見つめる、「男性によるストリップ劇場」だった。その夜、アダムはストリップデビューを果たし、その世界へ足を踏み入れていく。


 話には聞いたとこはあるが、実際に見たことはなかった「男性ストリップ」。日本における「ホストクラブ」とか「執事カフェ」などの女性向けの「娯楽」が、アメリカだとよりマッチョで直接的な見世物になる、というのは面白い。
 この映画の吸引力は「男性ストリッパーたちのショータイム」そのものであり、主演でマイクを演じ、ストリップ経験者でもあるチャニング・テイタム、怪物的な存在感で圧倒的に場を支配するダラスを演じるマシュー・マコノヒーなど、そのパフォーマンスの説得力は圧倒的だ。
 そして、その周辺にニンゲンドラマがある、というのが面白い事である。映画の中心にドラマがあるのではなく、あくまでも「男性ストリップ」という夜ごと開かれる、女性たちが熱狂する肉食な「夢」を見る「祭り」こそが映画の中心だ。
 男たちは言わば、毎夜輝いては消えていく「花火」だ。その「花火」を、スティーブン・ソダバーグ監督は得意の「手持ちカメラ」を封印して、きっちりとその華麗なるショータイムをフィルムに焼き付ける。


 この映画は、「花火」に引き寄せられる人々の熱狂、そこから一線を引く、アダムの姉・ブルックとマイクの出会いと、関係性の変化を描くことで、祭りの光と影が浮き彫りにさせつつ、祭りにのみこまれていく者、やがて、そこから離れていく者、昔と変わらずその祭りの中心に居続ける者、という三者三様の人生を3ヶ月に限定して交錯させていく。



 大金・女、なによりも代えがたい「ステージ」の高揚。アダムは、その劇場のメインを張るマイクや劇場主であり、場を圧倒的に盛り上げる演出を常に考える天才、ダラスの手ほどきで、めきめきと腕を上げ、その世界にのめりこんでいく。
 一方、マイクはその世界にどっぷり浸かりながらも、人生の曲がり角を迎えて、地に足着けた人生を模索しはじめていた。昼はいくつもの「事業」という名のアルバイトで働きながら、夜はカリスマストリッパー「マジック・マイク」としてステージに立つ日々だが、いずれ「旬」は過ぎ去ることを自覚してもいる。ストリップで稼いだお金を元手に商売を始めようとするが、銀行から低金利の融資を受けようとして断られ、途方に暮れる。
 本当は、地に足つけた人生を送りたい。けれども、ステージの高揚を捨てがたくもある。ダラスは共同経営者という餌をちらつかせながら、舌先三寸で新たなる新天地・マイアミへとマイクを誘おうとする。続行か、それとも引退か。マイクの中で激しい葛藤が起こる。


 ストリッパー「マジック・マイク」であること。それがマイクという男のアイデンティティであり、他人もまたステージ上の「彼」こそが、「彼」だと認識する。それはマイクの姉・ブルックも変わらない。
 だけど、本当の「俺」は違う、とマイクは思っている。俺はもっと、「善良」で「素朴」なニンゲンなんだ、と思っていたとしても、周りはそう受け取ってはくれない。「親友」アダムも、「師」であり「パートナー」(?)であるダラスにしてもだ。
 「本当の俺」はどこにいる。ステージ上の「俺」か。ステージの外の「俺」か。


 3ヶ月で見つける、それぞれの道。そしてマイクはついに決断をくだす。


 その夜、マイクはブルックに会う。ブルックとの「朝食」をめぐるウィットに富んだ会話もビシッと決まり、映画は静かに幕を閉じる。花火はどこかで上がっている。それでも、その音を遠くに聞きながら生きる人生もある。そんな人生を肯定しながら、「花火」そのものも肯定する。そんな映画である。(★★★★☆)