虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「言の葉の庭」

toshi202013-06-16

監督・脚本:新海誠



 以前、新海監督の作品の感想で書いた一文を引用する。

はじめにぶっちゃけますが、俺、心が汚れてるんで、新海監督作品は苦手だし前作「雲のむこう、約束の場所」なんてだいっきらい。この作品を見てもやっぱ苦手意識そのものは消えなかった。初恋のあまずっぱさやら、「あのころの僕ら」やらの全肯定、というのはまだいいんですよ。そういうのが恥ずかしいのではなくて、それを肯定する際に付随する「自意識」までも見事なまでに肯定しちゃうところがね・・・ちょっとダメ。でも、そこが新海監督の本質なんだって改めて思った。

 恋愛記憶のすすめ「秒速5センチメートル」 - 虚馬ダイアリー


 それを踏まえて。


 びっくりしました。


 素晴らしかったです。


 うーむ。こういう話が作れるようになったのか、とちょっとびっくらこきました。
 テイストとしては「秒速5センチメートル」の流れを汲む、「現代世界」を舞台とした男女の出会いと別れの物語。「モラトリアム」の季節に靴職人という夢へと迷いなく突き進む15歳の少年と、朝から新宿御苑に似た公園で黄昏てアルコール飲料飲んでる(←ダメです)27歳の女性との、「雨」がつないだ逢瀬。
 はじめは少年の目線から、年上の女性の神秘を描きながら、やがて、女性の抱えるとある「事情」、そして彼女の「正体」が明かされていく。


 実は作家性は「秒速〜」と変わらない気がしていて、それでもこの映画はある「発想の転換」が為されていると自分は考えている。その転換とは、「男女」の「役割」を入れ替える試みだとふと思ったのだ。


 少年は「雨の日は地下鉄に乗らず、1時限目は学校にも行かずに新宿御苑に似た公園で靴のスケッチを描く」というルールで学校をサボるものの、家事全般はこなすし、夢に向かって、出来ることはすべた自分でやる、という非常にしっかりしたお子さんである。その視点からみた、「自分の知らないものを知っている(であろう)」年上のウツクシキ女性との逢瀬は、梅雨の季節になると一気に加速する。親しく話すごとに意外と不器用だったり、変わっていたり、という「ダメ」な部分を見せ始めるが、一定の距離は崩さない。それゆえに「憧れ」は増していく。
 その彼女がその「ペルソナ」をかぶり続けるのは、彼女の「弱さ」を覆い隠すためである。自分に少しときめいている少年。そのことに気づきながら、彼が何者かも「知りながら」彼女は彼に逢い続ける。自分の「正常」を取り戻すために。それは弱い大人の「ずるさ」である。


 やがて、梅雨の季節が終わり、夏休みがきて、2学期が始まる頃。少年は彼女の正体と、彼女が抱えた「事情」のすべてを知る。


 社会からドロップアウトせざるを得ない、弱い大人。それでも、かっこつけてなきゃ自分を保てない、哀しい大人。社会に戻れぬままに、「少女」の頃から変わらぬように感じ、世界から取り残されたように感じる。それでも、私は「オトナ」なのだと、少年の前ではふるまってしまう。
 こういう「弱さ」ゆえの「ごまかし」の部分ををかつての新海作品は、男性視点から肯定的に描いてきた気がする。しかし、それを女性とすることで客観性を獲得し、自分の夢のためにまっすぐな少年を通して、恋した女性が抱えた「オトナのずるさ」を臆する事無く指弾できた気がするのである。


 その時、初めて、二人の間に高くそびえたっていた壁が取り払われる。そして、そこから二人の物語は、新たな始まりを迎えたようにも思う。弱い部分をさらけ出すことは勇気が要る。その勇気を、新海作品ははじめて描いたのではないか。
 現実世界と向き合い、上を向く少年によって、彼女は現実社会へ帰還する鍵を得る。歳の離れた男女の恋の話のようでありながら、人生に傷つき、長く囚われていた「モラトリアム」を女性が越える物語にもなっている。そのカタルシスこそが、本作の白眉。「ズルくて弱い大人」を最後に「否定」してみせることで開いた、新海監督の新たな境地なのではないかと思えたのでした。


 私が、新海作品に対してこの言葉を使う日が来るとは思わなかった。大好き。(★★★★)

 

はれた日は学校をやすんで (双葉文庫)

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