虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「君の名は。」

toshi202016-08-30

監督・脚本:新海誠





 外連、という言葉がある。


 元来人形浄瑠璃の世界で、「定法」に寄らず奇をてらったり、俗受けを狙うという意味であまりいい意味では使われない。いわゆる「はったり」だ。
 はったりというのはあまりいい意味には使われないが、ことフィクションの世界ではそうではない。現実的でない物語を語るときにどうしても必要になる。つまりはったりを利かせつつ、読者や観客の気を引きながら語る話法を俗に「外連味がある」などと言ったりする。これをカラダになじませてしまえば、それは立派な作家性にすらなりうるのである。


 さて。それをふまえて。
 

 新海誠監督最新作である。
 まずは驚いた。面白かった。


 感想を一言で言えば、まるで拙い綱渡りをみているような映画である。

転校生 [DVD]

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 物語は「転校生」の系譜に連なる「入れ替わり」ものであるが、新規性は「距離」である。東京と飛騨。舞台はこの二つであり、この「入れ替わり」が始まったとき、二人に「接点」はない。はずであった。少なくとも二人とも互いを互いに認識できない。
 飛騨の田舎町に住む女子高生の宮水三葉は、町では「べっぴんさん」で通っている。だが、父が町長を勤めていることで悪目立ちをさせられている状況があり、代々家の女性が担う巫女の口噛み酒の儀式では同級生からドン引かれるなど、町から早く出たいという思いが強い。「東京に行きたい」という願いが叶ったか、叶わぬか。東京の男子高校生、立花 瀧とたびたび「人格の入れ替わり」が起こり、互いに手探りの生活を強いられることになる。
 入れ替わった「相手」が自身の生活に与える影響の大きさに懲りた2人は、互いにルールを決めて、お互いが不自然にならず要らぬ影響を与えないように、スマホのメモなどを駆使して「筆談」形式でやり取りを始めるのだが、互いに影響を与えまくり、受けまくる日々が続く。だが、ある日、ぷつりと入れ替わりが途切れる。
 瀧は日に日に気になって、記憶をたよりに三葉の住む町を目指すが、その先で瀧は思わぬ事実にぶつかることになる。



秒速5センチメートル

秒速5センチメートル

恋愛記憶のすすめ「秒速5センチメートル」 - 虚馬ダイアリー


 自分はなんだかんだ、新海作品は大体劇場で見ているのですけど、「秒速」の頃までの新海誠は「女性」に対する「願望の押し付け」感というか、「こんな俺を好きでいてくれて、俺が好きなのは別の女性で、それを知りつつ告白しないでいてくれて」みたいな女性を恥ずかしげもなく出すというところがあって、「うほほほう!」と叫びだしそうな「痛々しい自意識」の「観客」との共有こそが作家性みたいなところがあったんだけど、その辺の感覚を克服できた作品が「言の葉の庭」だと思うんですね。

ここからは彼は「女性側」にもコンプレックスや秘密が当たり前のようにあって、そこから抜け出したいと思いながら苦しんでいるという、至極真っ当な描写をする。つまりここでようやく書き割りでない「他者」を描けるようになった。
コミュニティを抜け出したいと願うばかりで、そのコミュニティに生きる人を描く事を怠ってきた彼が、社会に根付いた他者の「物語」を描く喜びを爆発させたのが本作ではないか、という気がするのである。三葉が抜け出したいコミュニティーの美しさも汚さも描けるようになった懐の深さは、かつての彼には持ち得なかったものだ。



で。物語は中盤からある「大仕掛け」へと移行する。

入れ替わりは何故起こったか。そして、起こった先に2人が見る風景とは。そして2人が成していく「何か」を描いていくのである。


ここの大仕掛けの部分が賛否分かれるところではあるだろうと思う。新海監督に足りないのは「SF的整合性」を斟酌しない点だ。何故入れ替わりが起こったのかを説明する描写はあるものの、じゃあそもそもその「記憶」はどこから「来た」のだ?という因果律的におかしい場面が出てくるし、スマホの構造やセキュリティ的にも「メチャクチャするな、おい」っていう場面は頻繁に出てくる。ツッコミ入れ始めたらキリがない。整合性の部分だけ見たら、SFというよりファンタジーに近い。

だが。新海監督は「彼女は彼が好き」「彼は彼女が好き」という「思い」だけを頼りに文字通り押し通って行く。「こういう展開が描きたい!」「こういう絵を見せたい!」という気持ちを最優先に、ツッコミどころを「ハッタリ」で誤魔化しながら「それでいいんじゃい!そういうもんなんじゃい!」と一点突破。この「外連」ぶりがなかなかなのである。意外だが、その点に関しては新海監督は非常に腹が据わっている。だから物語と演出に勢いがある。思い切りの良さだけを頼りにグイグイ観客を引っ張って行くのである。
振り落とされるか、踏みとどまるか。そこは人それぞれなのだと思う。



さて。

 「君の名は。」が公開されたすぐ後に「グランド・イリュージョン」の続編が公開された。その続編の感想はまたの機会として。僕はこの「グランド・イリュージョン」の第1作目は、その年のベストに入れるくらい好きなのだが、その理由はやはり「んな無茶な」っていう「オチ」に向かって「外連」の一点突破で物語をグイグイ押し通すところなのである。そういう意味では実は「君の名は。」は非常に僕好みの映画なのかもしれぬ。
その「グランド・イリュージョン」の原題は「NOW YOU SEE ME」という。「見えますね見えますね」というマジシャン用語からの引用で、その後に「NOW YOU DON'T(ほら消えた)」と続く。


この映画はその逆を行く。「失ったように見える。けれどそうじゃないよ。」という「絶望の中の希望」を描こうとする。
「消えたね?消えたね?ほら現れた。」
名は消えても君の「存在」は覚えている。新海印の演出やモチーフを取り入れながらも「他者と自分」ではなく、「他者と他者」が出会う物語を生み出してやる!というストーリーテラーとして勝負した新海監督の新境地への綱渡りは、ツッコミどころで振り落とされなければ確実に楽しめる事請け合いである。ここ一番の大作で自分の描きたいものに忠実になれるその作家的自我の強さ。それが良い目に出た。結果は重畳である。大好き。(★★★★☆)