虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「アシュラ」

toshi202012-10-02

原作:ジョージ秋山
監督:さとうけいいち
脚本:高橋郁子


 絞り出すように「それ」は叫ぶ。「生まれてこなければ良かった」と。


 その大地は日照りに見舞われ、干ばつのために、人々は飢えていた。その地を放浪する一人の女。生きるためには殺し、そして人肉すらむさぼり喰う。そんな生活をしているため、彼女の頭には狂気がひそんでいた。生きるためには喰わねばならぬ。彼女の強烈な「喰らう」ことへの飢えの強さはどこから来るのか。彼女は妊娠していたのである。
 やがて、彼女はひとりの男の子を産み落とす。名前すらつけなかったが、彼女は赤子に愛情を感じ、赤子を守りながらその乾いた大地を生き抜こうとする。しかし、ついに食べるものがなくなった。なにか、喰わねば。「食べるもの」はないか・・・「食べるもの」。その時、彼女の目に「それ」が映る。それは、自分がこの世に産み落とした、赤子だった。彼女はいそいで火をつけると「それ」を生きたまま火の中へと放り込んだ。あまりの熱さに泣き叫ぶ「それ」を呆然と見下ろす女。その瞬間、突然の豪雨が赤子を包む火を消していった。
 その雨で正気に戻った女は、自分の犯した「我が子」への行いに驚き恐れ、半狂乱になりながらその場を立ち去ってしまう。赤子には母親が置いていった一振りの斧が残されたのみだった。


 生きるためには喰わねばならぬ。

 8年後、赤子は少年に成長していた。飢えをしのぐためなら、人を殺すことも食べる厭わぬ、言葉をも知らぬ「けだもの」へと。流れ流れて、少年はひとりの旅の僧を襲う。しかし返り討ちに遭い、その僧からおかゆという施しを受けた少年は、初めて人の温かさに触れる。彼は僧の「餌付け」で念仏「南無阿弥陀仏」と、僧が彼に与えた名前を覚える。
 彼に付けられた名前。それが、「アシュラ」(野沢雅子)であった。


アシュラ (上) (幻冬舎文庫 (し-20-2))

アシュラ (上) (幻冬舎文庫 (し-20-2))

アシュラ (下) (幻冬舎文庫 (し-20-3))

アシュラ (下) (幻冬舎文庫 (し-20-3))

 かつて「週刊少年マガジン」に連載され、人肉食を描いたことで一大センセーションを巻き起こしたジョージ秋山の漫画「アシュラ」のアニメ映画化である。


 東映アニメーションとしては、昨今「墓場鬼太郎」などで行われる原作重視路線のアニメの系譜に連なる作品と思われる。脚色に「モノノ怪」や「墓場鬼太郎」を担当した高橋郁子があたり、「THE ビッグ・オー」「TIGER & BUNNY」のさとうけいいちが監督として参加した。
 登場人物たちはCGシェーディングで描かれてはいるが、そのクオリティは非常に美しくリアルと戯画の狭間のバランスも演出によってかなり違和感なく描かれている辺りがすばらしい。


 物語はアシュラが「散所」と呼ばれる被差別部落の人間のいる荘園に流れ着き、そこで地頭の息子を襲い殺してしまったことから、彼は地頭に追われることになる。地頭においつめられ崖から落ちたアシュラは九死に一生を得て、死にかけていたところを荘園の小作人の娘・若狭に救われ、小屋へと匿われる
 若狭のぬくもりに触れ、忘れていた母親の暖かさを思い出したアシュラは、つかの間、人として生きる喜びを若狭に教えられ、彼女から戒められたことから人を殺すこともやめた。やがてアシュラは密かに彼女に思慕を抱くようになるが、彼女には密かに心に決めた男性がいたのである。それは「散所」で働く七助という男だった。
 アシュラは彼女に戒められていた斧を持ち、七助と若狭の逢瀬の場で七助を襲うが、若狭に制止され、「ひとでなし」と言われたアシュラは傷つき、彼女の下を去る。


 生きることの痛みにのたうち、愛する者にうち捨てられる記憶を揺さぶられたアシュラは、母親に火にくべられたときには言葉にできなかった思いを、言葉にするのである。


 生まれてこなければよかったのだ。なぜ俺を生んだ。かつて自分を火にくべ、そして彼の下から去った母に怨嗟の叫びを上げるわずか8歳の少年。
 生きることの苦しみを、狂気で隠し、法師に対して「おれはけだものだ!苦しくなどない!」と叫ぶ。しかし法師は喝破する。苦しみがあるのは「人である」からだと。心。理性。それが人にはある。おまえは獣ではない。人であると。


 物語はさらに過酷さを増していく。美しかった荘園は大水で田畑が壊滅し、小作人たちは飢えに苦しみ始める。その中に若狭もいた。彼は七助から施しをもらっていたが、七助たちも苦しいのは同じ。やがて施す食料もつき始め、若狭は次第にやせほそっていく。
 飢えは人のこころを狂気へと誘う。愛情深く若狭を育てた父親までが、彼女に「お前を人買いに売ればよかった」と言いだすようになる。小作人たちには暴力沙汰や殺し合いが絶えず起こるようになる。人の心にこそ「阿修羅」は棲む。人々がその「阿修羅」に蝕まれていけばいくほど、皮肉にもアシュラは「人」へと近づいていく。
 若狭を救いたい。そうしないと、おれは、おれはもっと苦しい。


 この世の奈落の底の底。叫んでも叫んでも届かぬ思い。わき出る、自らの「阿修羅」を自覚しながら、アシュラは走り出す。この世の無常を知り、人の中に棲む「阿修羅」とともに生きた少年。彼の道行きは常に暗い。しかし、だからこそ彼にしか見えぬ、境涯がある。それがこの映画の救いともなっている。
 震災以後、アニメーション映画は「癒やし」や「親子の愛情」をテーマにした映画が相次いだが、この映画こそ、まさに「今」のアニメ映画たり得ているように思えてならない。「なぜ僕たちは生きているか」その問いこそが、「現代」の若者の抱える「リアル」ではないか。わずか75分のこの作品にその「リアル」が息づいている。必見である。(★★★★☆)