虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「セデック・バレ」

toshi202013-05-30

原題:賽絀克·巴莱
監督:ウェイ・ダーション


「よく聞け、セデックの戦士よ!敵の首を狩れ!血で魂を洗い流し、虹を渡り、永遠の狩り場へ行こう!」


 この世には自分たちの「世界観」では理解できないことが往々にして起こる。


 この映画の題材となった「霧社事件」は、1930年10月に、台湾の霧社と呼ばれる村落で、当時、台湾を統治していた日本人が、台湾先住民に蜂起され、男はおろか、女子供まで容赦なく皆殺しにされた、晴天の霹靂とも言える事件である。なんでこんなことになったのか。日本人目線から見ればとても理解できない惨憺たる事件。
 その事件を起こしたセデック族側から「霧社事件」の顛末を描いた、二部作からなる大作が本作ということになる。


 セデック族の受難は日清戦争で日本が勝利したことで、1895年に清から日本へと台湾が割譲されたことから始まっている。
 清が台湾を統治していた時代は、彼らの「文化」「宗教」「慣習」はまるまると残されていた。彼らは「狩り場」で鍛錬し、「首」を狩ることによって大人として認められ、顔に入れ墨を入れることによって祖先の待つ「虹の橋」を渡っていけるとされた。入れ墨のないものは死んでも虹の橋を渡れない。それは「死」よりも恐ろしいことであった。そんな彼らの「アインデンティティー」は長く守られてきた。
 しかし、日本が台湾総督府を置いてまずしたことは、先住民の軍事力による統制と、徹底した「皇民化教育」であった。先住民たちもまた「日本人」であることが求められ、「日本」と同じ言葉、文化をはめこまれ、彼らの文化は「野蛮」と見なされ、「蕃人」と見下されることになった。セデック族は「誇り高い」一族であり、長く守ってきた文化を捨てることはできない。
 

 台湾総督府を置いてすぐの頃、日本は先住民に対して強硬路線を貫いていた。反抗すれば家族ともども殺され、セデック族は沈黙させられた。その傾向が変わるのは、「坂の上の雲」にも出てきた児玉源太郎が4代目総督になってからだという。硬軟を使い分けた統治によって、セデック族は日本人として取り込まれていく。タクダヤ蕃マヘボ社の長であるモーナ・ルダオ(リン・チンタイ/ダーチン)は日本に招かれ、彼らの軍事力を目の当たりにし、日本人が「河原の石よりも多い」ことを実感として感じ取る。
 日本人は彼らが「狩り場」としていた森を切り開き、そこに「日本人」がいうところの「文明」を持ち込んだ。その事も彼らの「誇り」を傷つけた。森が少なくなり、動物が森を離れることは、狩り場の縮小を意味した。長く守ってきた狩り場こそ「虹の橋」を渡るために必要な「居場所」だった。日本人は「死」をも恐れぬセデック族が恐れることを、長く行ってきたのだ。


 そんな中でもセデック族の英雄・モーナはじっとこらえていた。35年も経てば世代も変わる。若者は皇民化教育の成果で日本語はぺらぺらになり、セデック族出身の警官も2人出た。長く「支配」され、「見下され」、それでも彼には現実的に守らねばならぬ家族がいて、仲間がいた。日本人の中にも小島源治(安藤政信)のような友好的な警官もいるのを知っている。しかし、長きにわたりくすぶり続ける反抗の火種を抑えることはできない。
 そして、その火種に引火する日が来た。日本人警官との結婚式中の小競り合いをきっかけにして、マヘボ社の若者たちの日本人へのたまりにたまった不満が爆発。モーナに蜂起を促した。踏みにじられてきたセデック族の「誇り」、失われていく「虹の橋を渡る」ための狩り場。このままでは、若者の多くが「死」よりも惨めな目に遭う。
 「絶対に負けられない戦い」などではない。「目に見えて負け戦でも、戦わなければならない戦い」がここにある。


 こうしてモーナは、二度と引き返せない戦いの戦端を切る。彼らセデック族の尊厳を賭けた戦いへと突き進んでいく。


 その蜂起の端緒となったのが「霧社事件」と呼ばれる事件である。
 その徹底した殺し方はまさにセデック族の流儀であり、女子供であろうとも容赦しない。徹底した殲滅戦を展開して、日本人を混乱させた。彼らは死を恐れない。本当に怖いのは「首」を狩らずに「虹の橋を渡れない」ことだから。しかも裸足で森を走り回る、宮崎駿キャラみたいな身体能力の集団なので、西洋化された日本軍の常識では彼らの動きは計れない。日本人の体ではどうしてももたつくところを彼らは脱兎のごとく駆け回り、狭い場所へと誘い込んで弓矢や銃撃を放つことで、少ない戦士で効率よく多くの日本兵を斃していく。
 

 日本人兵士だけではだめだ。大量の犠牲の果てに、日本軍はモーナの長年の宿敵・タウツァ蕃トンバラ社のタモ・ワリス(マー・ジーシアン)に日本軍兵士として強制的に参戦させ、新型毒ガス爆弾まで投入してつぶしにかかる。追い詰められたセデック族の女性たちは自決し、男たちは1人も投降せず、最後の1人になるまで戦い続けた。


 モーナの起こした蜂起に対し、「なぜこんな事を始めてしまったの。子供たちが可哀想」と嘆きながら自決していくセデック族の女性たちの姿や、はじめはセデック族に理解の深い友好的な警官だった安藤政信演じる小島源治が、妻子を殺された復讐から手段を選ばなくなる哀しい姿を描くなど、この映画は決して日本人だけを悪と描いた映画ではない。セデック族の暴発は女性たちの幸せを踏みにじることだったし、彼らの苛烈さは「文明」側の常識から見れば、明らかに常軌を逸しているのだ。


 だが、それでもセデック族がなぜ抜き差しならない戦いが始めたのか。それは、自分たちの文化を軽視し、日本人としての型にはめることへの強烈な異議ということだろう。霧社の虐殺でも彼らは日本人は殺しても漢人(中国人)を殺していない、という描写がある。それは彼らの文明を認めてきた「清」への彼らなりの「畏敬」でもあるのだろう。互いの文化を認めず、一方を「野蛮」と決めつけ、「ひとつの鋳型」に押し込めようとするのは日本だけに限らず、大国化する国に共通する傲慢な悪癖だが、この「霧社事件」もまたその悪癖が生み出した悲劇である。
 彼らの戦う対象は、彼らの文化を壊そうとするニンゲンのみである。文頭の台詞の「敵」とはそういうニンゲンたち、という事である。我々日本人の「隠された悪癖」をこの映画に見ることで、今を生きる私たちの、他山の石としたい。(★★★★)