「おくりびと」
それではこれより、故人様の安らかな旅立ちを願いまして、納棺の儀、とり行わさせいただきます。
そこから納棺師の仕事が始まる。それは日本人から喪われた仕事だ。
オーケストラの夢を絶たれて、故郷へ帰る。ひょんなことから始めることになったのが、「ノウカン」という仕事。「ノウカン」=「納棺」=「棺に仕事を納める」。主人公は仕事の内容を知って絶句する。
だが、「納棺の儀」はもともと、遺族が行うものだったのが、業者にまかせるようになって出来たのが「納棺師」だと言う。地域コミュニティの希薄化によって喪われつつあり、資本主義の中にある「合理主義」が生んだ「スキマ産業」であることを、と女社員は自虐気味に語る。
この映画では「死」すら暖かくユーモアにくるむ。腐った死体を見た主人公は、その夜、妻を抱く。納棺の仕事を終えたあと、彼らは「死んだ肉」を喰う。我々は死によって生かされている。
彼らの扱う、死体の形は千差万別。きれいなままなものから、腐りきったものまで。納棺師は常に、「死」とともにある。ゆえに「死」を「穢れ」と考える人々からは、常に「人の死で飯を食う奴ら」という偏見とともにある。
しかし。
その所作はとてつもなく美しい。
この映画で一番はっとするのは、死体に周りには決して肌を見せぬように着替えさせたあと行う、死化粧。
そこで死体の中にがらりと一瞬、かつての「生」が復活するのだ。その鮮やかな「反転」。死は「穢れ」なのではなく、「生きた結果」なのだと遺族は強く認識する。その瞬間、ルーティンに思われた納棺の儀は、とてつもなく崇高なものへと昇華する。
これを画によって収めた時点で、この映画は勝った。
自分が山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を見て衝撃を受けたのは、人々生活の所作の美しさだった。これほどまでに流麗に動けるものなのか、というほど、ひとつひとつの動きが美しい。日本人の喪われた何か、というものがあるのなら、まさにそういう「動き」なのだろうと思う。
「納棺の儀」も、かつては日本で行われてきたことなのだ。それはまさに「日本人が喪ったもの」を納棺師が受け継いでいるだけの話なのだろうとは思う。だが、だからこそ、鮮烈なのだ。
日本人はかつて、死と生が不可分であることを知っていたのではないか。そう思えるほど、その儀式は死と生を分かちがたく結ぶ。タナトスがエロスを生み、それが新たなる命を生む。その大河を我々は流れていく。その中で、少しずつ何かを喪いながら、同時に何かを得ていく。この映画が、やがて自らを捨てた父親の、「言わざる言葉」によって、主人公の心が赦しの心へと帰結するのも当然といえば当然と言える。
そんなことを考えていると、ふと、納棺師もいずれなくなってしまう文化なのだろう、と思う。だから、このフィルムに焼き付けられた納棺師の仕事はとてつもなくエロティックなのかもしれない。(★★★★)