虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「パコと魔法の絵本」

toshi202008-09-14

監督・脚本:中島哲也


 いつでも誰かがきっとそばにいる。思い出しておくれ。素敵なその名を。上々颱風「いつでも誰かが」より)


 とある病院に一人の老人が入院している。オオヌキというその老人は一代で一商店を大会社にまで成長させた。だが、心臓を悪くして入院。結婚もせず、働きづめでワーカーホリックな老人は入院させられている今の自分の現状が、憎々しくてたまらず、誰彼かまわず当たり散らす。見舞いに来るのは、財産目当ての妻を持つ、頭の足りない甥っ子だけとあって、老人は孤独を実感する。孤独はますます老人を狭量にしていき、周りとの溝は一層深まっていく。
 そんな時、老人は同じ病院に入院しているパコという少女と出会う。その少女はいつも同じ本を大きな声で音読している。その絵本の題名は「ガマ王子とザリガニ魔人」。彼女の母親が誕生日に買ってくれた本だと言う。
 パコとオオヌキが出会った日、パコは金色のライターを拾う。それはオオヌキが大事にしている純金のライターだった。あくる日、純金のライターを暴れ回って探したオオヌキは、パコと再会するが、彼女はまるでオオヌキに会ったことがないような振る舞いをする。パコが差し出した純金のライターを見て彼女が盗んだと勘違いしたオオヌキは、パコを殴ってしまう。
 だが、彼女は再びオオヌキと出会ったとき、殴られたことを忘れていて、変わらぬ笑顔をオオヌキに向ける。彼女は事故の後遺症で1日だけしか記憶を保てない。それを知ったオオヌキは、自らの行いを恥じ、彼女のためになにか出来ないかを不器用に模索しはじめる。



 孤独から飛翔する。思い返すと、中島哲也が材を取る主人公は孤独とともにある。これまでも、ある時は孤高に、ある時はそこから脱却したいともがく姿を描いてきた。
 戯曲が原作の本作にあって、限定された舞台での集団劇ということで、主人公以外の人々も孤独にあえいでいる。
 憎まれるような行動を取る老人、孤独から逃れたくて自殺を図る元子役の青年、みずからの生き方で愛する娘の結婚式にも行けない父、愛する人(?)のために重傷を負ったヤクザなど、それぞれに孤独を抱えている。


 パコという少女と出会い、毎日彼女の為に絵本を読んであげる日々を過ごすうち、変わろうとする姿を、彼女が持っていた絵本に仮託し始めた老人は、やがて「サマークリスマス」というイベントで、記憶できない彼女が忘れられないほどの体験をさせるべく、「ガマ王子VSザリガニ魔人」の劇を企画する。


 この映画、決して戯曲の映画化としてはスマートな映像化とは言えない部分が多い。やたらアップを多用するカメラ、過剰なデコレーションを施された映像、ギャグ演出の過剰さ(とくに阿部サダヲの暴走っぷり)など、見ていてとにかく「うわーどうなっちゃうの?この映画」と思う。これほどまでに見ていて不安な中島哲也映画は初めてである。
 だが。ただでは転ばないのが、天才・中島監督。彼の目論見は、ドラマの勘所であるところの、劇中劇である。


 かつて高畑勲が「平成狸合戦ぽんぽこ」で試みた狸たちの写実/アニメキャラ/漫画キャラ、という風に「変身」させる演出を、中島哲也監督は革新的に盛り込んでいく。少女の持つ幻想とおとなたちがそれぞれに仮託する絵本世界への思いが融合し、演じる彼らは鮮やかにその姿を変えていく。
 その映像こそが、まさしく中島哲也が目指した地平、異才と呼ばれる天才の考える「正統派」クライマックスのかたちである。


 オオヌキのパコへの思い、そしてみずからを変えたいと願う気持ち、元子役の室町の「演じたい」という気持ちが、映像と過剰に連動するクライマックスはまさに「怒濤」であり、その映像に思わず涙を禁じ得なかった。さすがである。

 新たな地平を切り開くためとはいえ、前半部の辛さは相当なものではある。もっと面白く出来たろう、とも思う。
 しかし、不細工な映画であろうとも、その代償をもって得たものもまた大きい。中島哲也の実力から考えれば傑作・秀作とは思わない。もっと大きく飛べたはず。だが、中島哲也の新たなる一歩として記憶されるべき映像が見れたことは、非常に意義深い、日本映画にとっても、重要な映画であると思う。(★★★☆)