虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「塀の中のジュリアス・シーザー」

toshi202013-02-08

原題:Cesare deve morire
監督・脚本:パオロ・タヴィアーニ/ヴィットリオ・タヴィアーニ
原作 ウィリアム・シェイクスピア



 「ジュリアス・シーザーのようなやつはどこにだっている。裏切りも。そして、殺しもな。」



 殺人。累犯。組織犯罪。麻薬売買。反マフィア法違反。


 これらの罪名を抱えているのは、この映画に登場する「キャスト」の面々である。彼らは本物の囚人である。
 イタリア・ローマ郊外にあるレビッビア刑務所では、毎年演劇実習が行われ、半年の間にキャストを決めてその成果を一般に公開しているのだという。
 この映画の冒頭は、その劇の結末と、彼らがその劇の成功を喜ぶ姿が映し出される。


 そこから時は半年前にさかのぼる。面接は、一つ目は、国境で、奥さんに泣いて別れを惜しみながら、二つ目は、強制的に名前や出自を言わせられているというシチュエーションで、最初は哀しみを、次は怒りを表現する。志願者たちは次々と、彼らの名前と出身を、時に哀しみ、時に怒りにまかせて、はき出すように言う。


ジュリアス・シーザー (新潮文庫)

ジュリアス・シーザー (新潮文庫)


 その年、演じられたのはウィリアム・シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」。そのあらすじは、陰謀、裏切り、殺人。そして因果応報の物語。


 戦いに勝利し、英雄として凱旋するシーザー。そこへひとりの占い師を名乗る男が「3月15日に用心しなさい」という。元老院が捧げる王冠を三度固持するシーザー。
 一方、シーザー排斥の計画を立てていたキャシアスは、義兄でありシーザーの寵臣であるブルータスを引き入れようと説得していた。はじめは固持していたブルータスだったが、彼もまた「シーザーは王になるべきではない。」と感じていて、苦悩の末、キャシアスの仲間になる。
 3月15日。キャシアスとその同志たちはブルータスの元へと訪れる。キャシアスたちはシーザーとともに、彼の右腕となるアントニーも一緒に殺してしまおうと言い立てるが、ブルータスはその行いに正義はない、とその意見を斥ける。
 その日。シーザーは妻が「シーザーの血をローマ市民が浸している」夢を見たと聞き、元老院には行かないことを決めるが、そのことを聞いたキャシアス一派のディーシャスは、「それは逆夢で、むしろ吉兆」とうそぶき、元老院が王位を渡したいという甘言を弄してシーザーを元老院へ引きずり出すことに成功する。
 かくして、キャシアス、ブルータスたちによるシーザー暗殺は決行される。次々と刺され、最後にシーザーの前に短刀を持って、そっと近づくブルータス。「ブルータス、お前もか。」とシーザーがつぶやいた瞬間、ブルータスは彼にとどめを刺す。


 正義のために、暗殺したはずのブルータス一派。だが彼らには、思いも寄らぬ運命が待ち受けていた。


 この映画では、その囚人たちが様々な場所で稽古する様を、色彩を落としたモノクロの映像で追う。
 はじめは台詞あわせの様子から入り、稽古を重ねるたびに、徐々に役に同化していく囚人たち。裏切りと陰謀、血であがなわれる物語は、彼らの「過去」の記憶を激しく刺激し、彼らはより深く物語の中へ迷い込んでいく。
 はじめはドキュメンタリーの体で彼らを追いながら、モノクロの映像は虚構と現実を曖昧にし、そのはざかいを中心に虚実が螺旋のようにねじれていく。稽古のたびに、囚人たちは役になりきっていき、もはやどこまでか「彼ら」なのかもわからぬ。やがて、刑務所という閉ざされた空間は、いつしかローマ帝国の巨大なセットのように変貌を遂げていく。


 ダヴィアーニ兄弟はドキュメンタリーという手法を用いながら、キャストに登場人物とともに彼らの人生をもカメラの前で「演技」させる。彼らの「人生」の中にある「シーザー」、「ブルータス」「キャシアス」「アントニー」たちをカメラの前に引きずり出すことで、奇妙でねじれた物語世界が現出する。

 観客は戸惑う。俺たちは現実を見ているのか。虚構を見ているのか。その判断もつかぬままに眼前で繰り広げられる「物語」に深く引き込まれている。そんな、「戯曲」と「ドキュメンタリー」というジャンルを組み合わせて、現実の人生と虚構の人生を重ね合わせて、シェイクスピアの世界を現代・イタリアの刑務所内に広げてみせる。
 こうして、「映画」にしか出来ない「ジュリアス・シーザー」は完成する。囚人たちは演劇によって別の人生を生きることで自らを表現する「自由と解放」を味わいながら、劇が終わって彼らが囚われの「現実」に戻るとき、「自らの罪」への悔恨が胸を突く。虚構と現実を超えた「奇跡」を魅せる、マジカルな作品であり、「魂の牢獄」たる人間の自明をも浮き彫りにする傑作である。(★★★★☆)