虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ソハの地下水道」

toshi202012-09-27

原題:In Darkness
監督・脚本:アニエスカ・ホランド
脚本:デビッド・F・シャムーン


王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」
「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

宮崎駿風の谷のナウシカ」より

 我々が「生きている」ことは知られてはならぬ。
 この映画は、ひとりのポーランド人の男と、数人のユダヤ人の生存を賭けたある「隠匿」についての物語である。


 この世には見てはならぬ地獄がある。地獄は神や自然が作るものではない。時に、人間が人間を地獄に突き落とす。そして時に、その地獄から人を救い出すのもまた人間である。この世の終わりのような地獄が、この世界には突然現出することがある。
 ナチスドイツがある種の禁忌なのは、彼らがユダヤ人にとっての「地獄」を現出させたからだ。生きるも死ぬも地獄。ナチスドイツ占領下のポーランドも、まさにそんな地獄が厳然と存在していた。


 この映画の主人公・ソハ(ロベルト・ビェンツキェビチ)は絵に描いたような善人ではない。生きるためならば、家族を守るためならば犯罪だって犯すし、ユダヤ人が目の前で虐殺されようとそれを救い出そうという蛮勇があるわけでもない。彼は下水道工事を生業とする男だが、副業として若い相棒とともに空き巣泥棒をやるような男である。ただ、彼がユダヤ人と関わるようになった最大の理由は、金・銭・マネーである。
 泥棒稼業の帰り道にソハは下水道を通って逃げる。これは都市に入り組んだ、迷路のような下水道を彼が熟知しているからこそ、出来る芸当だった。そんなとき、偶然、ユダヤ人がゲットーから下水道への抜け道を作っているのを発見し、彼らから口止め料をせしめる。人種も宗教も違う。助ける義理もない。
 しかし、ナチスによるゲットーでのユダヤ人虐殺が始まると、逃げ場を求めて下水道への入り口へユダヤ人が殺到する。ソハは、彼らをナチスから匿うことで、日々の糧を得ることを思いつく。下水道で眠ることが出来るスペースへとユダヤ人を導き、金をもらう代わりに生きるための食料と水を運ぶことを約束する。


 こうして、ユダヤ人たちのサバイバルを賭けた、ソハの危険な副業は幕を開けた。


 この映画は実話をもとに創作された物語だが、この映画の眼目はどこにあるのかというと、実話の再現だけではなく、ユダヤ人がこの悪臭が漂い、不衛生で常にドブねずみが這い回り、太陽も月も星からも隔絶された地下下水道という世界で、それでも人は人であり続けられるのか、という命題に重きが置かれているような気がする。
 その分、旧知の軍人などからユダヤ人を匿っていることを秘匿し、ユダヤ人を匿うことへの奥さんの反発、知己の人間に起こるある不幸な巡り合わせなど、ソハの苦闘やそれにまつわるサスペンスで貫かれているが、全体的に下水道を舞台にすることへの息苦しさが支配する。物語の骨格こそ「ソハの危険な副業、および善行」についての話なのだが、だんだん「闇」の中でも必死に「人間」として動く、下水道に暮らし続けるユダヤ人たちについての物語の重心が移っていくように感じられた。
 劣悪な環境下においても、彼らは、食べて、祈って、愛し合う。そして、いがみ合う。彼らは元々、普通の一般市民だ。自分たちがこのような状況に置かれたことへの理不尽、ソハへの一挙手一投足に疑心暗鬼を抱く心も持ち合わせているのだ。考えることも価値観も人それぞれ。それぞれの選択で、そこから逃げて強制収容所に入るもの、下水道から抜け出せずに追い詰められて死ぬ者、そして下水道に残る者など様々だ。
 そして、妊娠して子供を産む女性まで現れる。どんな環境に置いても、どんなに追い詰められた状況であっても「人」は「人」たりうるのか。地上を「地獄」が支配する世界から逃れ、「地下」という表面張力ぎりぎりの生活を強いられる世界の中で、それでも「人」として生き抜こうとするユダヤ人たちの姿に、ソハも激しい試練や葛藤を経て、やがて彼らを心から支援し始めるのだ。


 人は常に善行をおこなうわけでもない。人は欲望からは逃れられないし、それは自然の摂理だ。善も悪も、人の中にあり、それは常に揺れ動く。けれど、それでも暗闇の中で試練や葛藤を経て「なにか」を行い続けることで、やがて「心から」善行を行うようになる。絶望が支配する、明日をも知れぬ世界で、それでも命は光り瞬く。
 ソハを通して描かれる人の善悪の不思議、1年以上もの間、下水道に隠れ続けたユダヤ人たちを通して描かれる「脆さ」と「強かさ」が同居する「ニンゲン」という生き物の不思議を感じずにはいられぬ、「絶望」の中の微かな「希望」を信じ続けた人々の物語である。(★★★★)