虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

バカの異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて酒井法子に耽溺するようになったか

toshi202009-08-26



 映画とはまったく関係ない話。


 ここのところ、私は気がつけば酒井法子の唄を聴いている。



 きっかけとしてみれば単純なことである。彼女の覚醒剤所持、もしくは使用の「容疑」による逮捕によって、彼女のCDや楽曲配信が軒並み撤去、配信停止の措置が各レコード会社で取られ始め、駆け込み的に彼女の楽曲のいくつかをitunesで購入したのである。
 で、「碧いうさぎ」「夢冒険」「世界中の誰よりきっと」のカバーなど、酒井法子専用プレイリストまで作ってしばらく熱心に聴いていた。最初は「あ、懐かしいな」程度のものだったのだが、それがいつしか「これはいいものだ!」という執着が沸くようになり、今ではちょっとした中毒である。


 芸能ニュースでは毎日彼女の報道を見ない日はない。加えて私の会社は東スポを刷っているのだが、東スポは一般スポーツ紙よりもさらにツッコんだ、有り体に言えば他では書けない「酒井法子のエグい話」が毎日のように紙面に踊り、彼女が人生の大半を賭けて作り上げた偶像は今や、完全に破壊されて、その破片は泥にまみれてぐちゃぐちゃである。
 それを私は見て、聴いて、読んで、彼女についての報道される「裏の顔」を私はいやというほど知っている。にも関わらず、彼女の楽曲や「過去の偶像」は私の中ではより強烈な愛おしさまで感じるようになっている。


 不思議なもので、私は今まで酒井法子というタレントにあまり愛着を感じたことはない。無論アイドル時代の彼女は可愛いと思うし、「いい子」という彼女の仮面をそれなりに受け止めながら見てきたが、別に熱心なファンというわけでもない。酒井法子を初めて知ったのは自分が「アニメ三銃士」を熱心に見ていたころに、その主題歌を歌うアイドルのお姉さん、という認識が最初であり、実はそこからあまりイメージにブレがない。

 にも関わらず私は今、とてつもなく酒井法子にちょっとしたお熱を上げている。不思議である。今、「星の金貨」や「ひとつ屋根の下」とか再放送されたら、録画して永久保存するね、俺。つーか、DVDーBOXを買いかねない勢いですらある。


 話は変わるのだが、この間、マイケル・ジャクソンが亡くなった時、多くの人がマイケル・ジャクソンのCDやライブDVDを買いに走って、一時レコード店からマイケルの商品が軒並み消えた、というような話題があった。
 僕は「荒川強啓のデイキャッチ」のPODCASTを聴くのが日課になっているのだが、マイケルが死んで数日後、金曜日のコメンテーターの宮台真司先生が「僕は毎日出かける前にマイケル・ジャクソンのPVを必ず見るのが儀式になってるんです」というような発言をしていて、その挙げ句に僕はムーンウォークを特訓して出来るようになった、と自慢げに話しているのを、「はー・・・」と感心半分呆れ半分で聴いていたことがあったのだが、今思い返してみれば、宮台先生の「マイケル熱」と、私の「酒井法子熱」はどこか似ている。


 マイケル・ジャクソン酒井法子を同じ土俵で語るわけにはいかないことを承知の上で、それでも彼と彼女に共通するモノを考えたとき、そこにあるのは「人生を壊してまで、虚構の自分を作り上げてきた」ということではないか、と思う。
 マイケルの人生における迷走の果てに、「麻酔薬過多で死亡」するに至る彼の半生、そして永遠に失われた「巨大なる虚像」。

 そして今、酒井法子もまた彼女が半生を賭して作り上げた虚像が、がらがらと崩れ落ちていく。我々はもはや彼女を「虚像と実像」を重ね合わせる事は、永遠にないだろう。


 しかし、死によってもしくは醜聞によって、これより後、虚構が永遠に生み出されることはない、と知れば知るほど、人はより深く、その虚構を愛せるのかもしれない。実像の彼、そして彼女が、実像と虚像の狭間で苦しみ、もがきながら、人知れず揺れ動きながら、それでもなお強固に作り上げてきた虚構。それを知れば知るほど、実像と虚像の有り様がより乖離すればするほど、人は、深く「虚像」を愛する。僕は彼女の虚像と乖離した実像*1を知れば知るほど、より彼女の虚像に愛着を覚えてしまうのである。
 しかし、それは、時に「ノスタルジア」という甘い罠であるとも言える。


 国破れて山河あり。夏草や兵どもが夢のあと。喪われたものはすべてが美しい。本来ならば「彼らは喪われた!もういない!」と高らかに叫ぶべきなのかもしれない。それでも今は、素直に虚構に身を任せるのもいい。喪われた瞬間こそ、彼らの虚構が最高に輝く時が「今」ならば、そこに耽溺するのはやぶさかではない馬鹿な私なのである。

*1:真偽はともかく