虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「へルタースケルター」

toshi202012-07-22

監督:蜷川実花
原作:岡崎京子
脚本:金子ありさ


 以前から語っていることであるが、私は「女優」沢尻エリカが好きである。


 嫌いになったことがない。例の「別に。」騒動を通して見えたのは、「偽らない本音」で生きる彼女である。大体、その騒動の発端となった「クローズド・ノート*1という作品自体が沢尻を小馬鹿にしたような役柄、筋立てだったのだから、あのコメントは至極まっとうな彼女の「本音」であり、本来は賞賛にすら値する。
 本当にあの映画で見るべきところなどなかったのだ。


 これほどまでに好きな沢尻エリカである。しかも共演に桃井かおり寺島しのぶである。


 撮りようによってはものすごく濃密な「空気」の映画になり得たのだと思うが、この映画はそういう意味では大分「期待はずれ」である。この映画は『映画監督」蜷川実花としての自意識よりも「写真家」蜷川実花としての自意識が多分に出た作品になっている。


 物語は若い世の女性達から絶大な支持を得る、「カリスマ」モデルの「りりこ」についての物語である。田舎から東京に出てきて、その類い希なる美貌でこの世のひとつの「頂き」に立つ女。それを演じるのが沢尻エリカである。しかし、その「美貌」には秘密があった。


 ま、「秘密」って「全身整形」なんだけどね。
 彼女は、全身整形による後遺症が出始め、彼女は自分の「美しさ」が崩壊していくことにおびえ、迷走し始める。


 前作「さくらん」が映画としての意識にそれなりにシフトしていたがゆえに、映画としての枠には収まっていたのだが、今回は、その揺り戻しがある。行って見れば「写真」の連続体としてフィルムを浪費しているように見えるのだ。
 それはあまりに魅力的な「沢尻エリカ」という被写体に、蜷川実花の「写真家」としての意識がシフトしたがゆえに起こってしまったことではないかと思う。世界の「切り取り方」が「動きの快感」よりも「動く写真」という意識で撮っている。ひとつひとつ切り取られた「絵」は写真として完成していてもそれをつなぎ合わせれば「映画」になるわけではない。


 つまりこの映画は「写真」を「撮る側」の蜷川実花が、「被写体」の内面について語る映画である。
 

 蜷川実花はその内面すらも自分の「写真家」としての世界観で「りりこ」を追い続ける。この映画に張り付く「違和感」の正体はそこにあるのだと思う。この映画の「りりこ」は、または「沢尻エリカ」はまるでスチール写真のそれのように美しくありつづける。蜷川監督の中にある「被写体」沢尻エリカの吸引力に、引き寄せられている結果ではないか。
 「りりこ」の内面までも「被写体」感覚で迫ろうとする。だからこの映画はどこまでもベタベタとした感触が抜けないのである。


 それでも、それでも映画にはつねに目をそらせない力がある。それは蜷川実花監督、いやさ「写真家」ニナガワミカから見た「沢尻エリカ」その人の「力」である。
 主人公「りりこ」の欲望は、言ってみれば「『事件』のような存在でありたい」ということである。彼女は「美しくありたい」と思うのではなく、その「美しさ」から起こる様々な「事象」にこそ彼女が感じる快楽がある。無論、自分の美しさが崩壊していくことへの恐怖と、その恐怖と相対するための自己破壊こそが物語を牽引するが、しかし、「りりこ」はやがて、気付く。彼女の快感の「根源」に。


 そこで「沢尻エリカ」と「りりこ」の存在は美しく「反転」する。「事件」に「なってしまった」女「沢尻エリカ」と、「事件」に「なりたかった」女「りりこ」。奇しくも相対するキャラクターが、映画の中で奇妙な融合を果たす。


 この映画における「美容整形」は単なる「記号」で社会問題として提起しようとする意図は希薄だ。だから大森南朋演じる検事が暗躍する「美容整形」告発パートの陳腐さたるや、ちょっと目を覆いたくなるほどである。ここで映画監督・蜷川実花の才能の底がわかってしまうほどだ。はっきり言って邪魔だ。そのことがこの映画を混乱させている気がする。
 ただ、「写真家」ニナガワミカは、「被写体」沢尻エリカの力、「事件性」を信じている。そのことを力強く感じさせる作品ではあったが、「映画監督」蜷川実花が「映画」女優・沢尻エリカの「天才」を十二分に引き出しきれたとは言い難い。この映画の存在の両義性が、まさに「へルタースケルター(しっちゃかめっちゃか)」ではあるだろう。(★★★)