「さくらん」
監督: 蜷川実花 脚本: タナダユキ 原作: 安野モヨコ 音楽: 椎名林檎
公式サイト:http://www.sakuran-themovie.com/
「女、女、女。女だらけのこの国で、このままこわい女郎になっていくかと思うとアタシは恐ろしくなった」
当たり前のことを言うと、女性はかつて「女ノコ」であった。女ではない。後になんだかんだと経験して、さまざまな形を為していくわけだけれども、そういう意味では女の子であることを、早々に忘れ去らなければならないのが、花街ではないかと思う。
誰が呼んだか知らないが言い得て妙なこの二つ名、ひと呼んで「日本のソフィア・コッポラ」こと蜷川実花監督第一作であるが、画づくりの才能は、新人監督としては近年まれに見るセンスを持っていると思う。素晴らしい。
しかも、スタッフ・キャストの陣容が、ある一方向に向いてるとしか思えないほど、むせかえるほどの「女」の匂いだ。原作、脚本、音楽、主演。これほどまでに同じ匂いのする人々を、よくぞ揃えたといいたくなる面々を揃えながら、こちらの想像したものを裏切らず、なおかつ見事に最上級にラッピングされたものが出てきて、「うはあ・・・」と思った。
ソフィア・コッポラとは違う次元の「女丈夫」ぶり。まずは大したものである。
その上で、描かれるのは「女ノコ」であったことを捨てない「女」の姿だ。
物語自体は、それほど目新しいものではないし、あまりにもわかりやすい。江戸時代のいつか、足抜け不可の吉原に売られてきた少女が。突っ張りながらも女郎としての才能を開花し、花魁へと上り詰めていく様を描いていく。
ヤンキーは初恋を捨てない、というが、女であることを受け入れつつも、少女であることを裏切らずに女になっていくには、つまるところスケバンになるしかない、とこの映画は喝破する。堕ちていくのは簡単だ。「少女」であることを諦めるのも、少女であったことを捨て去るのも。それを拒否するには、結局折り合いつけながらも、突っ張るしかないじゃないか。
この世はは苦界だ。知っている。それでも、それゆえに、アタシはアタシであったことを捨てない。体は売っても心は売らぬ。そんな「きよ葉」の生き様を、監督は見事な「画」で切り取っていく。
「咲かぬ桜などない。」
それは「夢」だ。咲かぬ桜もある。それでも、それでも信じねば、ならない。ラストにこの映画が提示する「解放」は、全て夢だ。だが、泥をすすってきた彼女だからこそ、見ていい夢にちがいない。
幼い頃の、他愛ない約束の為にすべてを捨てて走り出す彼女の姿。「女の子」だった「女性」が見る望みの全てがあるのかもしれない。男である俺にはわからぬながら、そうではないか、と思った。(★★★★)