「ハンナ」
原題: Hanna
監督:ジョー・ライト
脚本:セス・ロックヘッド/デビッド・ファーラー
音楽:ケミカル・ブラザーズ
あたしハンナ16歳。どこにでもいるフツーの女の子。
今日もあたしは森からハントにでかけるの。近頃の草食系はとっても音にビンカン。あたしがわずかに物音を立てようものならあっというまにエスケープ。だけどあたしは彼らを決して恐れさせずに、ジマンの鍛え上げたボディと弓矢で彼のハートを撃ち抜くの。だけどハンナ、今日はちょっぴり反省★。だって、アタシの必殺の矢がハートからちょっぴりハズレちゃった。エヘ、ゴメンネ。仕方がないから、ハンナお気に入りのピストルでトドメの一撃。彼はすっかりあたしのトリコ。こうすれば苦しみもちょっとで済むモン。
返り血あびちゃったけど、気にしない気にしない。ナイフで彼のたくましいカラダを切り裂き、カイタイしちゃう。今日のゴハンになってくれる彼に感謝★。そう思ってたら後ろから黒い影。
いやだもうパパったら、あたしが彼をハントするとこ見てたのね!まったく心配性なんだから。そんなことしてたらハゲちゃうぞ★。あんまりハズかしいから思わずジマンのマーシャルアーツ*1でパパに思わずアタックアタック!だけどあたしのパパは、今日もあたしのアタックをかわして、今日もイイコイイコとあたしの思い*2をあしらうの。あたしの思いは永遠に届かないのかしら。
パパのするグリム童話を聞いていたら眠くなってきちゃった。オヤスミナサイ。明日もいいことがありますように。by ハンナ★
・・・はい、というわけで。
大変お見苦しい文章をお見せしたわけですが。まー、映画の冒頭の説明としては大体あってるはずです。(んなわきゃーない)
ジョー・ライト監督が、天才子役女優として名を馳せるシアーシャ・ローナンと、個人的には大傑作である「つぐない」以来のタッグを組んで贈る最新作は、なんと16歳まで暗殺者として大事に育てられた箱入り娘が初めて外のセカイに触れる旅を描いた、非常に乙女チックなストーリーです。嘘です。
フィンランドの森で自給自足の生活の中で、暗殺術に必要なスキルだけを徹底的にたたき込まれた少女は、自ら望んでCIAのトリコとなり、モロッコにある秘密の建物に幽閉されます。しかし、「父親」から「殺せ」といわれていた「マリッサ」と名乗る女性を自慢の暗殺術であっという間に殺害すると、邪魔する敵を次々と殺し、時にあしらい、彼女は見事脱出。一路、父親(エリック・バナ)のいる、ベルリンの「グリムの家」へと向かう。その途中で彼女は、一組の家族と出会う。そこの長女・ソフィーと少しずつ仲良くなっていきます。
はじめての「旅」。はじめての「文明」。はじめての「電気」。はじめてのはじめての「テレビ」。はじめての「音楽」。はじめての「友情」。奇しくも彼女は生まれてきてたくさんの「はじめて」を経験していく中で、次第に本来の「少女」らしさを身に着けていくのですが・・・。
しかし、CIAの魔手はどんどん彼女に近づいていきます。
一方、ハンナを追う急先鋒となるのが、CIA捜査官でありハンナに「殺されかけた」マリッサ(ケイト・ブランシェット)です。ハンナの父親であるエリックは元CIA捜査官であり、彼とハンナが抱える出生の秘密は彼女にとってはキャリアの汚点であり、なおかつ拘禁したハンナをモニター越しに見たとき、愛情とも憎悪ともつかぬ複雑な感情を抱きもする。彼女はキャリアのために母となる喜びも悲しみも捨てた女性であると公言しているが、しかし、彼女が本来の母性をまったく持っていないわけでもない。
彼女は必死にハンナを追いますが、ハンナ追跡を依頼したアイザック(トム・ホランダー)には「決して殺すな」ということを厳命したりもする。
ハンナが抱える「過去」は少女版「ジェイソン・ボーン」という感じもするのだけれど、演出的なアプローチはむしろ真逆で「ボーン」シリーズがとことんカットを割るのに対し、ジョー・ライト監督はワンカット長回しによるアクション一発撮りを多用する。もちろんカットを割るべきところは割ることで、アクションに緩急を付けたりするなど、さまざまな手法をいろいろ楽しそうに試してもいる。
ジアーシャはハンナのアクションをこなせる肉体を作り上げてこの映画に臨んだように、あくまでもアクションが映画の構造の芯でありながらも、同時にこの映画は「純粋培養な少女」が始めての外界に触れることで、少しずつやわらかなアイデンティティを持っていく過程を描く、叙情的な部分も持ち合わせていたりもする。アクション映画でありながら、少女の、純粋であるがゆえに善悪さだかならぬ季節を描いてもいるのが、この映画の特異点である。
外界に対する純粋なおどろきとよろこび、初めての友達ができたうれしさ、異性に対してのぎこちなく、それゆえに荒っぽい対応など、少女らしい側面を持ちながら、それらのハンナの決定的な欠落をついには補えない。
それゆえに、ハンナは純粋な「少女」のまま、マリッサと対峙することになる。
ケイト・ブランシェットの硬質さは、シアーシャも持ちえている資質である。一見頑なな外見と、しかし、その内部に流れる内面をきちんと表現できる役者であるがゆえに、ふたりが並び立つと、まるで親子の再会のようでもある。
しかし、相見えるとき、ふたりは敵同士として、立っている。
マリッサがもつ、ハンナへの複雑な感情ゆえにマリッサは「人間」であり、ハンナは「純粋」さを保持しつづけているがゆえに「怪物」でもある。。そしてハンナの「純粋少女」ゆえの「怪物性」が、刹那にマリッサへ鮮やかに「復讐」するとき、この映画はその「純粋さ」を象徴するハンナの一言によって幕を閉じる。
アクション映画を母体としながらも、少女の純粋さゆえの世界への心のざわめきを描きつつ、純粋であるがゆえの暴力性を見事に屹立させた、ジョー・ライト監督の新たな境地である。(★★★★)