虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ボーン・アルティメイタム」

toshi202007-11-14

原題:The Bourne Ultimatum
監督:ポール・グリーングラス
脚本:トニー・ギルロイ、スコット・バーンズ、ジョージ・ノルフィ


 彼の旅は終わっていなかった。彼は帰る。己の生まれた場所へ。



http://members.edogawa.home.ne.jp/t20/review_0502.html#bourne

 「彼らはドジはしない。そして思いつきの行動も。彼らの行動には常に狙いがある。」
 「狙いがあるとして、それを指示しているのは?」
 「驚きたい?彼自身よ。」


 CIAのトレッドストーン計画で連絡係を担っていたニッキー(ジュリア・スタイルズ)は、CIAの人間の前でパスポートによって当局に拘束されたジェイソン・ボーンマット・デイモン)という人間をこう断ずる。完全無敵。この映画においてボーンという男は、知的かつ俊敏、そして最強。敵はいない。非人間的なまでにパーフェクト。まさに、生きる精密機械のごとし。だが、彼を突き動かすのは、もっとも人間的な問いかけからきている。


 「俺は何者だ?」


 「ボーン・スプレマシー」の続編である。


 続編というか、完全に「スプレマシー2」、または「スプレマシー完全版・後編」のような構成になっている。よって予習必須。


 というわけで。
 物語の入り方でまず度肝抜かれた。まさかの完全な続きである。この辺で初見の人々置いてけぼり確実なのだが、有無を言わせず物語は記憶の「完全修復」へ向けて動き出す。
 何故マリーは殺されなければならなかったのか。
 その理由を探る中で、「スプレマシー」で生まれた、過去への贖罪の気持ち。そして謝罪への旅へ。その過程で彼は次々と思い出す。自らが殺してきた人々の顔を。


 すべてを思い出し、自分の過去に決着をつけるため、再度彼は真相に向けて動き出す。ボーンは情報を得るために、自らの存在を追う記者・パディとの接触を開始する。だが、彼はCIAの禁忌に近づいていた。そのことを察したCIAは、パディを拉致しようとする。彼とコンタクトを取ろうと待ち合わせしていた彼は、すぐに不穏な動きを察知。危険を避けるべく、行動を開始する。


 この映画の凄みは「物語=人のうねり」、思いから生み出されるアクションである、という境地にたどりついていることである。よって、大仰な演出や説明的な台詞は徹底的に省き、細かくカットを割ったアクションで「近接的な」情報をがんがんに入れていく。CIA、殺し屋、記者、ボーン。それぞれはそれぞれの情報しか知り得ない。相手が何者なのか、そして何が目的なのか。
 アクションという名の情報戦によって、それぞれが得ていく「断片的な」情報が整理されながら、するすると観客にそれぞれの目的が示されていく。ボーンのアクションは、常に「情報」「メッセージ」を脳に与えつつ、その情報処理を「反応」ではなく「反射」の域に高めて行動を起こす。彼のアクションはそれぞれに「意味」がある。それは「スプレマシー」から一貫して描かれてきたことである。カット割りをなんのためにするのか。それは雑多な情報を整理し、そして観客にきちんと提示することだ。グリーングラスもまた、ボーンと同じ「思考法」でアクションに「意味」を持たせていく。
 これこそ、「カット割り」を使いこなす天才と、使いこなせない凡百の監督たちとの圧倒的な差である。


 逃げるようで逃げていない。戦っているけど戦うだけではない。五感がフルに研ぎ澄まされ、肉体の全細胞が、様々な情報を送り、そして躍動する。アクションと思考が連動している彼のアクションは無駄が無く、常に情報戦、知能戦の要素を多分に含んでいる。

 そんなボーンとグリーングラス監督の出会いはまさに奇蹟と言っていい。



 今回、ボーンは情報戦のノウハウに関しては圧倒的に優る敵の網を、技術によって乗り越えようとする。だが、今回彼は単独行だけではなく、時に守らねばならぬ相手が出てきた。「スプレマシー」との違いは守るべきものを守る戦い、そして守るべき者に救われることを知る旅でもある。そして、前回は完全対決を避けた、CIAと再び対峙することになる。
 彼は、味方すらリモートコントロールする術を持っているが、それでも護るべき相手は「ボーン」ではないので、不確定要素が常につきまとう。それが彼の、数少ない欠点ではある。彼の本領は、単独行にこそある。


 復讐は望まない。マリーが望んだことではないから。マリーが望んだのは。俺が「ボーン」という名の呪いから解放されること。


 正義のためでなく、己のためだけではなく。彼の戦いはマリーと出会い、過ごし、その中でマリーからもらったものを「護る」ための戦い。俺の力はなんのためか。マリーと出会った中で手に入れたものこそが俺の人生。だからこそ、彼は記憶の底へ潜り込む。退く気はない。
 彼はロンドン、タンジールの激闘の中で、彼らの秘匿するものへ近づいていく。彼は遂に生存証明を送りつけ、単身敵の懐へと乗り込んでいく。俺はどこから来た。ボーンが、その行方を知る手がかりがあるならば・・・その相手はだれか。一人いる。


 パメラ・ランディ。彼女もまた、前作で彼と「情報戦」という名の「対話」をした、数少ない一人である。彼女もまた、ボーンを追いかけ続けていた。


 ここでスプレマシーのラストカットへとつながっていく。すべてを察し、彼女は示す。彼の故郷を。
 彼はその情報を得ながら、同時に彼が為すべき事を為す。それはパメラの意志を「利用」しながら、駒として囮にすることだった。



 大仰な言葉はいらない。彼の行動こそがすべてを示す。彼の中の事実がどうあれ、彼は彼自身だ。彼の一挙手一投足こそが彼の言葉であり、叫びである。
 アルバート・フィニー演じる「父親」たる博士は、彼に記憶をたどらせることで、自らの命を引き替えにしてまでも、組織の側にひきこもうと試みる。だが、記憶を取り戻した彼は、それでも博士の懐柔を拒否する。


 ボーンの正義は何か。ひとつ言えるのは、かつての自分が望んだ正義とは違う「何か」にすでに変質していることだ。


 過去の呪いを「飲み込み」、その上で己がかつて望んだものすらあっさりと捨てていく。ボーンの帰還の目的は、人としての「人格」を復活させること。マリーの望む自分になることだったのだから。彼は「愛」という名の「呪い」を得たことで、自らの「過去の呪縛」を解きはなったのである。傑作。(★★★★★)