虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「カールじいさんと空飛ぶ家」

toshi202009-12-19

原題:Up
監督:ピート・ドクター
共同監督:ボブ・ピーターソン
脚本:ボブ・ピーターソン/ピート・ドクター




 「モンスターズ・インク」以来の新作でピート・ドクターが描くのは、78才のじいさんが空飛ぶ家で南アメリカの秘境への冒険に旅立つ物語。


 うん。いい映画だったんだ。困ったことに。


 


 実は複数回見ていて、繰り返し見るに足る映画ではあるし、よくできてはいる。のだが、なんかこう「切実さ」のようなものがどこか希薄に感じられてしまったのが、困ったことだった。要は「頭で作った」映画という感じがどうしてもしてしまう。
 冒頭の「カールじいさん」の半生、というか妻とのなれそめから描き、ともに過ごし、泣き、笑い、歳を重ね、やがて死がふたりを分かつまでの結婚生活の思いでを描いているのだけど、ここが、物語の出発点であり、物語の伏線ともなっているわけだが・・・。ここが俺の中では問題だった。



 物語の始まりをどこに置くか、という意味において、この映画はかなり冒険をしている気がする。つまり「カールじいさんの人生」をある程度規定してしまったことにあるし、そこが物語の構造として「本当の冒険とは何か」というテーマへとつながっていくんだけど、問題はじいさんが旅に出るまでの流れなのだよな。カールじいさんの年齢は78才なわけでしょ。で、俺にはどうにも腑に落ちないのだけれど、じいさんにはじいさんなりのコミュニティがあったんじゃないか、と思うのよね。妻を愛していたというのはわかるけど、妻とだけしか人付き合いしていたわけではないでしょ。そのへんの描写を「家の周りが開発されちゃって何もない」という風にばっさりやってしまったのはわかりやすいけれど、どうにもカールじいさんの人生を軽く見ている気がするのよね。せめてその辺のコミュニティが消え去っていく部分も一緒に描かないと、じいさんの切実な孤独感が身に迫ってこない気がする。
 あともう一つ。気になったのは、じいさんが冒険に出る目的である「美しい記憶」を頭に持ってきたこと。正直言えば、それはあとで流せばいいものではないか?最初から観客が、じいさんの動機を一から十まで知る必要はない。どうしても、というならせいぜい、「チャールズ・マンツ」と「冒険ブック」が出てくる、少女時代のエリーの出会いで止めておけば良かったのではないか、と思う。妻との美しい記憶の場面はそれこそ、終盤に「冒険ブック」を見返すシーンで流せば良かった気がする。美しい記憶そのものが彼の半生そのもののように見えてのは、明らかな失敗だと思うのだ。じいさんの人生は、美しい記憶ではなく、幻滅するような現実や、妻との生活以外にも、さまざまな喜びや悲しみが色々あったはずなのだ。そういう部分を想像する余地を残さずにじいさんの人生を「規定」してしまったのはつまらないことだと思った。



 喪失。思いで。妄執。そして、それらを捨てる覚悟。新しい「本当の人生」という奴を新たに手に入れるのは、老いていくにしたがいムズかしくなっていく。かつての英雄であり、過去の妄執に囚われた「かつての自分」の鏡である、チャールズ・マンツと対決する流れは、そして、そこに至る流れはアニメならではの荒唐無稽な設定とご都合主義ばりばりの展開で進行し、それをさすがの演出力でぐいぐいみせていくのはいい、すごくいい。
 だから、たぶん、最初のカールじいさんの美しき結婚生活に心奪われた人にとっては、非常に素晴らしい傑作なんだろうけど。ボクはじいさんの「78年」という人生の長さに対して、『妻」以外の喜び、哀しみ、苦しみその他諸々がある人生であったことも、示すべきだったのではないか?と思ってしまう。せめて想像の余地を残すカタチにすべきだったと思う。そうでないと、じいさんの「78年」があまりにも薄くなってしまう気がするからだ。(★★★★)