虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「マイマイ新子と千年の魔法」

toshi202009-12-07

監督・脚本:片渕須直
原作:高樹のぶ子


 麦畑は海。私の家はその海を往く船。



 その日、ボクは電車に乗って神奈川県橋本へ着いた。東京都江戸川区在住のボクは初めて橋本へ来た。東京を東西に流れる都営新宿線京王線はひとつなぎで、ボクの家は都営新宿線の東端にあり、橋本は京王線の西端にある街の一つである。橋本へ来たのはこの映画が東京近郊で唯一、この時期午後6時以降にこの作品を上映している映画館だからであった。
 見ようと思い立ったのにはいくつかわけがあって、ひとつは、はてなブックマーク界隈でこの映画の評判がよかったこと。ひとつは文学フリマでブース出展して、そこでもらった無料のコピー本を読んだから、というのがある。実は文学フリマが終わった午後4時ににこの映画を見たいがために終了と同時に蒲田の会場を退散し、銀座で前売り券を買って、いざ見に行くところをさがしたら、もはや東京都内、およびボクの行動範囲である千葉県の上映館は昼までには上映を終了していて、旗艦の新宿ピカデリーでさえ、上映2週目にして午後1時の上映開始を最後に上映をしない有様であった。
 シネコン時代の弊害と言わねばならない。せめて旗艦上映館ぐらいは終日上映する気概を見せて欲しい。


 大学病院での診察があってその後に橋本という街を訪れたボクは、初めて来て少々迷いながらもなんとか上映館であるMOVIX橋本にたどりついた。

 そして、映画を鑑賞して映画館を後にする。ふと街の景色が、なぜか別のものに見えた。こういう感覚は、おぼえいてる。ボクが大学時代、図書館で見た「ショーシャンクの空に」を見てショウゲキを受け、何故俺はこれを映画館で見なかったのか、と歯がみし、以来映画館通いをするきっかけとなった、その時の記憶にすごく、似ていた。
 ボクは見終えたあと、確かに映画の「魔法」にかかっていた。


 時は昭和30年。この映画のヒロイン青木新子はおでこにつむじ(マイマイ)がある女の子で、ひたいの上がいつもピンとアンテナみたいにはねあがっている。彼女はおじいちゃんお手製のハンモックにゆられながら、じいちゃんの話を聞く。元教師であった新子のじいちゃんは、彼の地、山口県防府市国衛の村の歴史を彼女に聞かせる。「面白いことはいつもじいちゃんが教えてくれる」。そう言い切る彼女はじいちゃんが持っている、千年の昔をありありと想像する「魔法」を受け継いだ女の子である。
 彼女には千年前の人々の姿が、この街の人々とダブって見える。村人の横を牛が引く荷車を先導する先人たちがゆっくりと通過していく姿を見えているのである。その「チカラ」はもしかしたら今のじいさんはなくしてしまった「チカラ」なのかもしれない。


 そんな彼女が通う松原小学校*1に東京から転校生がやってくる。ちかくの紡績工場の専任医師として東京にやってきたお父さんにつれられて彼の地に来た彼女は、制服を着用するその小学校に私服で登校せざるを得ず、いきなり浮いてしまっていた。しかもなにやら香水をつけているらしく、それもまた他の児童に不評であり、彼女もまたそんな空気を感じて縮こまっている。しかも担任の先生は奥さんが出産したため学校に来ておらず、紹介もされぬまま、自習をさせられる有様である。
 彼女の名は島津貴伊子(以下「きいこ」)という。彼女は多色の色鉛筆を持っていて、それを他の生徒に見つかり、いきなり羨望の的となる。一人の男の子がそのうちの1本を借り、あまりに無造作に扱ったことからもみ合いとなり、男の子は結果、廊下に立たされることになる。


 その一部始終を見ていて納得がいかない新子はきいこにこっそりついていき、彼女にその旨をはなしかける。しかし、どこかきいこは虚ろな反応を示すのみである。その後、きいこについていった新子は彼女の住む紡績工場の社宅へとやってくる。


 このことがきっかけで、きいこと新子の交流が始まる。きいこは死んだ母親の「思いでの品」に囲まれながら生きている。それは父親が亡き母を忘れられずにいるからだが、彼女には母親の記憶はなかった。物心つくまえに死んだ母の品に囲まれて生きているが、彼女は母親の姿をリアリティを持って想像する術がわからない。父親のウイスキーボンボンを持ち出して、新子たちと食べたあげくよっぱらったときも「わたひのおかあさん、ひんじゃったー」とイイながら、爆笑している。彼女にとって母親の死は、かつての生は、なんらリアルなものではなかった。
 それは新子が持っている「魔法」のちからを彼女は持ち合わせていなかった、ちうことである。


 新子は自分が子供であることが自覚的な子であり、その「オトナの世界」のわからなさも含めて子供として今をまっすぐ生きることに躊躇しない子供である。常にはつらつとしている新子の気風に、きいこは徐々に惹かれていく。
 きいこにとって、新子はときどき不思議なことを言う子である。実際には見えないものが見える子である。彼女は時に千年の昔へと飛ぶことがある。彼女はその時、自分と同い年くらいのお姫様がやってくるのを見たという。保健の先生のひづる先生によると、そのお姫様の名前は「諾子(なぎこ)」という子であったらしい。
 この映画は、その清原諾子の日々をも平行して描いていく。彼女には友達がいなかった。いつも孤独にひとり遊びをしている。そんなある日、牛車の中から、働いている同年代の女の子を見つけ、仲良くなりたいと願う。


 きいこは新子と行動をともにするうち、徐々に子供らしいはつらつさを取り戻していく。
 この映画は、子供から見た世界の豊かさを描く一方で、オトナが抱える世界を「並列」させている。だが、それはあくまでも新子たちの視点からは見えない。彼女たちは無邪気に美人でおしとやかな保健の先生に幻想をいだき、5年生のタツヨシのお父さんであり、剣道の達人であるお巡りさんのかっこよさに憧れを抱く。
 だが、オトナにはオトナの現実がある、そしてそれが一瞬にして露わになることは、子供たちにとっては青天の霹靂以外の何者でもない。


 金魚の死、保健の先生の「結婚」の真相、そしてタツヨシのお父さんが遭遇してしまって起こったこと。そのひとつひとつが、子供たちが信じる「ファンタジー」を打ち砕こうとする。それは新子たちがやがて知る現実なのかも知れない。しかし、しかし。それは「今」を生きる子供にとってはあまりにも重すぎる現実である。
 子供が、子供であり続けることの難しさ。家出をした新子がタツヨシとともに港街へと向かうクライマックスは、子供から見たオトナの現実のるつぼであり、その「現実」から飛翔するための「想像力」という名の魔法を取り戻そうとする決闘でもある。


 一方、きいこは新子たちとふれあううちに、彼女の中にも「魔法」が受け継がれていく。彼女もまた、千年の昔を見る。それは諾子(なぎこ)になった自分である。彼女が千年の昔へと「ジャンプ」するきっかけとなったのは1枚の写真。それは・・・・母親の子供時代の写真である。


 この映画での重要な登場人物は、新子のじいちゃんである。彼が新子に想像力を広げるヒントをいくつもあたえている。彼が語る、リアルな『千年前」の姿は、かつて「子供」時代の自分が「魔法」によって見た千年前の姿を、孫に伝えているのだと思う。語り継ぐことで見えてくるものがある。想像力は確実に伝播していく。


 おとうさんもおかあさんもおじいちゃんも。そしてわたしも、これを呼んでいるあたなも。だれしもが子供という時代を生きて今がある。子供には子供にしか見えない世界がある。だれもが持っていたその「世界」。千年前も昭和30年代も、そしてゼロ年代が終わろうとする現代も。それぞれに子供たちがいて、その時代を懸命に生きている。
 真に人がオトナへとなっていくには、より「子供」が「子供らしく」生きることが必要なのだと、この映画は言っている気がする。
 時代を超えてつなぐのは、「子ども」時代の想像力であり、それが時に軽々と「時」を越えていく翼。今も「魔法」を持っている子供たちと、かつて「魔法」を持っていたオトナたちへ。どちらにも見て欲しい傑作である(★★★★★)

*1:なんと実在する!