虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「映画ドラえもん/新・のび太の宇宙開拓史」

toshi202009-03-16


監督:腰繁男
原作:藤子・F・不二雄
脚本:真保裕一



 僕はここ4年ほど映画ドラえもんを見続けているのだが、30過ぎのおっさんが見る、ということに関していえば実を言うといくばくかの恥ずかしさがある。僕が愛読する映画サイトの人は、ほぼスルーだっつーのもあるのだが、やっぱり「ドラえもん」は子供のものである、という思いがどこかにあるからかもしれない。
 それでも、去年まではわりとほかにも見ている人がいたような気がするのだが、去年の賛否分かれた、というより明らかに「否」な意見が多かったオリジナル?長編「緑の巨人伝」のせいか、今年は興行収入ランキングで「ヤッターマン」に敗れる、という大波乱で、去年との対比で7割くらいの成績なのだそうで、これは単純に「ヤッターマン」がよくできているから、ということではなく、やはり「緑の巨人伝」の影響で、そうとう親子の「親」の層、もしくは「大人」の観客が離れた、と見るほうがいいのかもしれない。


 で。今年の「映画ドラえもん」ですけれども。出来としては大変無難です。リメイクですから、大きく外してはいませんが、かといって「大傑作」と胸を張れるものでもない気がする。
 でもね、今回ちょっと見ていて反省したのは、「ドラえもん」映画のオリジナルで傑作を手に入れるには、かなり茨の道なのではないか、ということである。


 僕はむかし大長編ドラえもんをひたすら繰り返し読んで、アニメも見た人間なので、割とわかっているつもりでこの映画に望んだのが、この年齢になって見てみると、意外と新たに気づくことも多い。
 去年の「緑の巨人伝」感想で、ぼくはドラえもんという存在を『文明が紆余曲折を得て勝ち取った明るい未来」の象徴』と書いた。
 しかし、である。大人になって見て、ぼくは「明るい未来」を見ているだろうか。現実を見れば、そこかしこに「暗い未来の予兆」を感じこそすれ。「緑の巨人伝」は僕が感じている法の「予感」に忠実である。それゆえに、「緑の巨人伝」は「映画ドラえもん」としては不完全だったというのが、僕の結論だった。


 「ドラえもん」という存在は、まっことに大嘘を基礎としている。つまり「高度に発達した未来」という「ありえるかもしれない大嘘」の世界から来た存在である。・・・ということを改めて言いつつね、それでも、ちびまる子ちゃんが「あたしにはなぜドラえもんがいないのか」と真剣に悩むほどにリアリティがある、というのが藤子・F・不二雄先生の天才が成し得る「ファンタジー」である。
 でね、今この文章を読んでいるあなたは「ドラえもん」を「SF」か「ファンタジー」のどちらか、と問われたら、どちらと答えるだろう。「映画ドラえもん」って、そう考えるとかなりあいまいな部分が多い。つまり、存外「いい加減」さがありながら、リアリティを獲得する、という「嘘とリアル」のバランスが肝だった、ということである。科学的に間違っていることをさも本当のことのように言うことをやっていたのだ・・・ということを、本作を見ていて、「はっと」気づいたのだった。いまさら?そう、いまさら。
 少なくとも本作に限って言えば、かなりテケトーな嘘をかなりあっさりとついている。たとえば畳とドアが時空でつながる、というのはまあいいとして、いくら「時空のねじれ」でつながっているとはいえ、そのせいで地球とコーヤコーヤ星の「時間の経過の仕方が極端に違う」という嘘はいくらなんでも・・・と思わなくもない。それに、のび太がスーパーマンになる、という設定自体が、実は「科学的」に言えばまったくの「間違い」ということである。「重量と質量」は根本的にちがうのだから、重力が低い=体が軽くなる=スーパーマンになれる、というのは根本的にレトリックでしかない。


 つまり。本作は「明らかに嘘、もしくは間違い」を自明のものとして、それをあえて踏み越えてみるのが正しい。そうなると、この物語は実は「ファンタジー」の要素が想像以上にでかいのではないか、という思いが強くなる。「高度に発達した科学は魔法とうんぬん」という言葉を持ち出すまでもなく。「宇宙」を舞台とし、西部劇をモチーフとした、異世界。それこそがコーヤコーヤ、という安直な名前の星である、ならば。
 この映画をファンタジーとして見ると、ある作品とある一点でものすごく似ている。畳とドアをつなぐ異世界。そのアイデアはあの作品の出だしと酷似している。「ナルニア国ものがたり」である。


 畳(ドア)から異世界、というアイデア、そしてなにより、「時空のねじれ」を通して異世界の数時間が、現世の数分、というアイデアは、ナルニア物語からの拝借ではないか、と思った。
 ・・・まあ、「ナルニア」と「宇宙開拓史」は共通点がありこそすれ、それを藤子先生が意識的に引用したか、というと、実は確信に足る根拠がないのでアレなのだが、本作は、無意識のうちにアイデアがつながってしまったのではないか、と思う。「時空のねじれ」かなんかで。えー・・・でね。僕が言いたいのは、この「宇宙開拓史」という大元の話自体は、非常に「ファンタジー」のほうに針が振れている話ではないか、という仮説である。


 で、本作の脚色をミステリー作家・真保裕一先生が前々作以来の再登板をしてらっしゃるのだけど、そこに付け足した要素というのが、「時空に吸い込まれて行方不明になった父の事故をきっかけに、大人たちの身勝手さを糾弾する少女」モリーナというキャラで。
 この「新〜」のコーヤコーヤ星の中に「町」があって、そこに市長などもいる、という設定があるのだけれど。それは真保先生のリアリティの中で、「大人の目線」から原作のコーヤコーヤを眺めるとリアリティがない、ということなのではないか、と思うんだけど。つまり「いちいちトカイトカイ星まで行かないと大人は酒も飲めないじゃないか」ということなのかもしれない。


 ・・・でものび太がコーヤコーヤ星とつながりを持つきっかけとなるロップルくんはわざわざ「コーヤコーヤ」の人のために、トカイトカイ星に「買出し」に行ってるんだよね。えー・・・でも彼のカーゴ船って、あんなそこそこでかい町の人間に分け与えるほどの物資を積んでたか・・・というと、かなり疑問なんだよな。
 つまり、この映画にはいろいろとリアリティを出そうとして自縄自縛になっている箇所が結構ある。


 あのね、たぶんだけど、コーヤコーヤ星に町はやっぱいらないよ。藤子先生は、そういうことは考えてなかったと思うんだな。コーヤコーヤ星に求めていたのは「村落」ぐらいのイメージで、「市」ぐらいの規模になってくると、それはもうちょっと規模がでかすぎる。だって、この話って基本、のび太がどうしようもない「現実」から逃げるように、時間を見繕ってコーヤコーヤで過ごす話でしょ。単純にロップルくんを助ける、とかそういうリアリティを超えてくる。
 そもそもが、うそにうそを重ねつつ、それをギリギリ許されるリアリティで描いたのファンタジーが「宇宙開拓史」という話なのだな、と原作を読み返して思ったりしたのである。そう考えると、本来脚色が重きを置くべきは、そのリアリティの「バランス」の問題ではないかと思う。


 ましてや「時空のねじれ」の向こう側にある「世界」という、第三世界まで出してモリーナたんのエピソードを挿入しているんだけど、そこまでいくと、ちょっと嘘がいきすぎてしまって、大げさな方向に流されてしまっているのではないかな。
 そう考えると、やはり往年の藤子・F・不二雄先生の「ファンタジスタ」っぷりって、天才の成せる業だったのだな、といまさらながらに、気づかされた。しかもさ、ぼくらの未来は明るい、という前提の物語を、覚悟を持って書いてきた人の「直感」が導くものであるならば、それを身につけるのって、相当困難な道なのではないか、と思うのである。それなのに、僕はですよ、「オリジナル」をつくれつくれとせっついて、ですよ。まったくわがままな、おっさんですよ。


 だけどね。それでもね、やっぱり、ドラえもんは「過去に生きるべき存在ではない」と信じたい。


 ドラえもんは「明るい未来」から来た。そのことを子供たちに伝えたいならば、たまにはリメイクも結構だが、もっと、もっと「未来」へ通じるような傑作を「今」生み出そうとする意思を、「映画ドラえもん」スタッフには期待したい。偉大な先達からのバトンはすでに渡っている。そのバトンに使われるか、使いこなすかは、スタッフの志次第なのではないか。(★★★)