虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

繰り返す物語。繰り返さない物語。

toshi202011-09-20


「映画マニア」と呼ばれるような方々はこの手のアニメを見る人が基本的にそんなに多くはないと思う。映画好きの人が指す「アニメ」とはあくまで劇場でかかるような2時間の作品であり、それも映画の一種として見ているので、いわゆるひとつの「アニメ好き」と呼ばれる方々とは相容れない部分があるのではないだろうか。

そんなようなことを常日頃から勝手に感じているぼくが巷で話題になってる“タイバニ”こと『TIGER & BUNNY』を観た。これは普通におもしろいんだけど、60点満点中の60点というような出来という印象を受けた*1。どういうのが世間でウケているのかなぁ程度の興味で見始めたのだが、やはり「映画好きがすすめるアニメ」と「アニメ好きがすすめるアニメ」は決定的に違うなというのを再認識した次第だ。
2011年魔法の旅?『魔法少女まどか☆マギカ』 - シン・くりごはんが嫌い


 上記の文章は、映画レビューブログとして飛ぶ鳥落とす勢いの「くりごはんが嫌い」のカトキチくんが書いた、テレビアニメ「魔法少女まどか★マギカ」に関するエントリからの一部引用である。この文章はエントリの前振りであって、あくまでもエントリそのものの趣旨ではないのだけれど、僕はここでちょっと個人的にひっかかりを持ってしまったのだ。
 カトキチくんは非常に正直な印象で語っているわけだけれど、「映画」におけるアニメと「テレビアニメ」におけるアニメの差異というものは、個人的にあまり考えてこなかった命題ではある。この一文を読んで以降、その違いについて考えてみると面白いのではないかと思った。


 振り返ってみて、「アニメ映画」と「テレビアニメ」には絶好のサンプルがあるとすれば、それは「ドラえもん」ではないだろうか。


 藤子F不二雄先生がアニメ映画においてももたらした功績は、非常に大きいと考えている。「テレビアニメ」と「劇場用アニメ」の差異に、一種のテンプレートを作り出した功績は大きいと思う。後に原恵一監督や湯浅政明監督を輩出した「映画クレヨンしんちゃん」シリーズも、「映画ドラえもん」でシンエイ動画が培ったノウハウがなければ映画シリーズとしての大成はなかったに違いない。

 テレビアニメの方の「ドラえもん」は、「日常」の中に「非日常」的な異物「ドラえもん(の秘密道具)」があり、物語構造は日常の困った出来事を「非日常」的存在によって、日常に変化を与えることで成立している。しかし、それはあくまでも「日常」の中でのドラマが基本にあり、ドラえもんがいようといまいと、のび太「日常」は繰り返されていく。テレビアニメシリーズに限らず、テレビドラマシリーズもまた「日常」の連続がドラマ構成の基本で、主人公が「非日常的な事象」が起こったとしても、繰り返される物語によって「非日常」な事象もまた「日常」の物語へと回収されていく。

 しかし、「映画ドラえもん」では、のび太たちが「非日常」世界へと「冒険」することで、「非日常」な物語との対峙を迫られる。「日常」という作品世界にありながら、もしくはそこから飛び出すことで、結果「非日常」の物語に介入せざるを得なくなるというのが、「映画ドラえもん」の基本構造であり、その物語は必ず何らかの決着を迎えて、のび太たちは「非日常」な物語から「日常」世界へと帰還する。


 つまり。僕の中の仮説のひとつとしてテレビアニメとアニメ映画の決定的な違いを上げるなら、「日常」と「非日常」の主従関係が逆転することにあるのではないかと思う。テレビにおいては「日常」が主で「非日常」が従、映画は「非日常」が主で「日常」が従である。*1


 テレビシリーズの強みは、視聴者側の日常の一部になることだ。習慣化することで視聴者の「日常」の一部となり、視聴者を物語世界に数ヶ月間「呪縛」する。一方、映画は劇場まで足を運び、日常から離れた場所で鑑賞し、基本はその物語は数時間で終わりを告げる、鑑賞者にとって「一期一会」の存在である。
 それゆえに「物語の語り口」自体も当然変わる。テレビシリーズに不可欠なのは「物語」の基本構造となる「テンプレート」を作り、それを繰り返しながら、物語世界の強度を高めていく。もしくは、「日常」というテンプレートから徐々に逸脱し、「日常」から「非日常」な結末へと向かっていくことにある。一方映画は、物語世界の「時間」を如何に切り取って、テレビシリーズよりも時間と手間のかかった演出によって一気に観客を引き込むこと重要になる。数時間で何万年、何億年もの物語を描くこともあれば、数時間で数時間の物語を描くこともある。それゆえに物語の自由度も高く、脚本を練る時間の濃度や、演出の練度とその多様性はドラマの比ではない。


 一番正しいのはジャンルによって物語のミカタを変えることだと思う。テレビアニメにはテレビアニメの、アニメ映画にはアニメ映画のミカタがある。テレビアニメにアニメ映画の価値観を持ち込むのは、正しい見方とは言えない。
 物語を楽しむための「作法」をわきまえれば、おのずと、「テレビアニメ」には「テレビアニメ」の、「アニメ映画」には「アニメ映画」のミカタが存在する。そのミカタをわきまえた上で、物語を見つめたならば、僕らは正しいアニメのミカタになれるはずだ。
 映画マニアとアニメマニア、という「国境線」を張るのは、個人的にはやや偏狭な考え方のように思ったりもする。ジャンルに垣根はあるが、鑑賞者の努力次第では、意外と簡単に取り払える垣根だと思うのです。



関連リンク:

ヤマモトHPさん

僕がよくチェックしている、個人的に大変信頼しているアニメ感想サイトさんです。多くのテレビアニメをチェックされながら、一話一話、短い文章でスパッと本質を突く感想を書かれるので、大変参考にしています。


虚馬ダイアリー プラネテス感想
以前このブログで個人的に書いたテレビアニメ「プラネテス」感想です。この感想を書いたのがテレビアニメというジャンルの理解を深める一助になりました。個人的に、アニメ「プラネテス」はゼロ年代を代表する傑作アニメのひとつだと思ってます。

*1:もちろん「どういう物語」を描くかによってイレギュラーは存在する。なにげない日常を描く「映画」もあるし、リアルタイムでテロとの戦いを描くドラマ「24 -TWENTY FOUR- 」なんかはむしろ作りとしては「映画」の延長線上だろう。