虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「STAND BY ME ドラえもん」

toshi202014-08-16

監督:八木竜一/山崎貴
原作:藤子・F・不二雄
脚本:山崎貴


 てなわけで。「ドラえもん」の映画である。


 藤子F不二雄の作品、特に「ドラえもん」の凄さはどこにあるか、ということをつらつら考えるに、多くのファンがいて、そして「俺が、俺こそが最もドラえもんについてこだわっている」と錯覚させるほどに、子供時代の頃にみんながっつりと心捕まれるからだ。ドラえもんの原作を何度も繰り返して読み、映画ドラえもんを見に行った。
 それは宮崎駿作品への思いに近い。子供の頃、心捕まれたものは「俺の漫画」になる。現在の宮崎駿作品が作品を作るごとに常に変容していくのを「子供の頃見た宮崎駿作品」を拘泥するがゆえに耐えられない人がいるように、ドラえもんもまた、「俺の中のドラえもん」がそれぞれの中にある。


 さて。
 まず、ボクの立場を明確にしておくと。俺はこの作品を支持するものである。


ただ、見る前の印象は最悪でした。
 原因はこのキャッチコピーである。

 この「いっしょにドラ泣きしません?」というキャッチコピーがとにかく不快。こんな観客をバカにしたキャッチコピー見たことがない。観客が泣くことを期待して映画見に行くバカだけだと思ってるのなら、宣伝担当者は舌かみ切って死ぬか、さっさと映画担当を外れろ。帰ってくるな。
 さらに予告編の泣けそうな見せ場の連打する編集や、CMで有名人が本編を見て泣いている映像をつなげた宣伝を見るにつけ、さーっと見る気が引いていく。なんだろう。この映画の宣伝を見るたびにうんざりで、もう本編への期待が急速に薄れていくのである。


 完全なマイナスイメージのまま、「いっそ見なくていいかあ」ってところまで追い詰められたところで、ふと見に行く気になったのは、理由は簡単。某映画館である映画を見ていた時、上映機トラブルに遭い、そのおわびに無料鑑賞券を手に入れたからだった。


 その映画は改めてカネを払って再見するつもりで何につかうかな、と思って選んだのが本作である。
 つまり、「タダならみるかあ。」というくらいのテンションで、重い腰を上げていざ鑑賞したわけである。


 えーと。見ました。

 
 俺はね、大丈夫でした。ぶっちゃけいう。面白かった。
 この映画、見る前から結構色々悪評があって不安だったけど、俺はね、楽しかった。問題なく楽しめたんですね。ま、そもそも僕は山崎貴という監督が嫌いではない。「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズも肯定してきたし。それに思った以上に、ちゃんとしたドラえもんだった。


 考えてみると漫画「ドラえもん」は日本人に、現在進行形で最も読まれている「古典」だ。


 ドラえもんが誕生したのは1969年。そこから藤子F不二雄という漫画史に燦然と輝く天才が、亡くなる1996年までひたすら作品をコントロールしてきた一大コンテンツである。映画版ですら、彼がストーリーラインを考えてそれにそって作られていたように、「藤子F不二雄」はまさにドラえもん世界を紡いできた神であり、その神通力は今なお、我々の中に深く浸透している。
 そういう意味では、「愛国心」よりも深く広く「愛ドラ心」を我々は持っている。持ってしまっている。


 山崎貴監督と八木竜一監督は本作で初めてあることに挑戦する。それは、ドラえもんの「藤子F不二雄」及び「藤子プロ」の手を介さない、新たなる「語り直し」である。


 本作のプロットの元になっているのは原作の名作エピソードの数々である。「未来の国からはるばると」「たまごの中のしずちゃん」「しずちゃんさようなら」「雪山のロマンス」「のび太結婚前夜」「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」 と、ファンなら「ああ!あの話!」ってなる話がずらっと並ぶ。山崎貴監督はそれをつなげて一本の作品として作ろうと試みる。





 山崎貴監督が強調するのは、漫画「ドラえもん」の「未来改変SF」としての側面である。
 野比のび太は冴えない小学生で、その後も冴えない人生を送ることが「決定」されていた少年であった。僕なんかダメなんだよ、と決めつけて努力もせず、行き当たりばったり人生を送った結果、そのツケは子孫に廻る。彼の子孫である「セワシ少年」はそんな未来を変えようと、ネコ型ロボットドラえもんを送り込み、未来を変えようと試みる、というのが、ドラえもんのそもそもの話である。
 なので、本作ではしずかちゃんとの結婚へと続く未来へと変える物語として、映画を語り直している。だから、ドラえもんとの節目になるエピソードと同時にしずかちゃんにまつわるエピソードが集められたわけである。

 それを一本の映画にするためにこの映画ではある仕掛けがしてある。それは「成し遂げプログラム」という、独自設定である。ドラえもんに言わば「現代」に残す強制力を持たせた。これは「のび太くんが幸せにならない限り、未来には帰れない」という指令に逆らった場合、ドラえもんに電流が流れるという、なかなか踏み込んだ仕掛けだ。


参考:はてなブックマーク - 「すてきな未来が来るんだぜ」と言う 映画「STAND BY ME ドラえもん」 山崎貴、八木竜一共同監督インタビュー (1/5ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)


 この独自設定にはネットでは賛否両論が渦巻いているが、僕はこれはアリだと思う。
 そもそも、セワシという少年のやろうとしていることは、航時法に鑑みてみれば違法ギリギリ、いやさ、場合によってはアウトの発想だ。彼は言わばある種、邪な考えに囚われて未来からやってきた少年でドラえもんは、彼に振り回されて現代に連れてこられたロボットである。
 原作ではその点においてドラえもんは別に疑問も持たずに野比家に居座るのだが、考えてみると意思があるロボットなら、見も知らぬ時代にいきなり放り出しされて拒否したくなる方が普通だ。そこで強制力を持たせて居座らせる、というセワシ少年の「無邪気な悪意」を具現化したような解釈の新設定はいいと思うのである。「電気ショック」はやり過ぎ感もあるが、まあロボットなんでその辺は耐性がある、ってことなんだと思う。

 はじめはその「強制力」によって現代に残されたドラえもんが、のび太との生活の中で、少しずつ変わろうとするのび太にほだされていく、という流れは、「あ、悪くない」と思ったのである。セワシという子のある種の邪さと、ドラえもんというキャラに「意思」と「感情」を補強するアイデアとしてはいいと思うのだ。
 日々、ドラえもんひみつ道具に頼っているのび太だが、それでも時折「それじゃダメなんだ」と自覚する瞬間がやってくる。ドラえもんとの日々を通して少しずつのび太は「変わらなきゃいけない」と思うようになる。その気持ちはちょっとずつ蓄積され、やがてそれがのび太の未来を変えていく。セワシの思惑を越えて、のび太の成長しようとする意思が未来を変えるのである。


 否定論者の中には、こんな「名作エピソードを集めたらそりゃ泣けるよ」という人もいるのだが、そうだろうか。俺はそうは思わない。腕のない落語家が「古典落語」をやったってダメなように、古典をきちんと自分の血肉にして「語り直す」ことがそんなに簡単なことだとは思わない。


 山崎貴&八木竜一監督が本作で行ったのは、「俺たちのドラえもん」として語り直してみせることである。
 そういう映画を見ることは、ちょっとした設定の齟齬も気になる、原作愛が深い人ほど、もしかしたら辛いものかもしれないが、しかし!それでも、こういう映画が出てくることは決して悪いことではない。


 藤子F不二雄が亡くなって18年経つ。それでもなお、ドラえもんはいつまでも「藤子F不二雄」の物語のままだ。しかし、ドラえもんはもっと自由になっていいはずだ。


 映画化されるとき、その映画は原作者のものではなく、映画の作り手のものになる。
 その事に、山崎貴監督はものすごく自覚的だ。それが結果、原作の可能性を広げていく。




(C)島本和彦


 アメコミが時を越えて映画で語られ直しているように、「ドラえもん」もいずれ語り直されるべき色あせない魅力を持った「古典」だったのだ。本作はそのことをよく理解して作られていることを見逃してはならない。ファンのものすごくセンシティブな部分にあえて踏み込んでくる山崎貴監督の「鈍感力」は、本作においてはかなりいい作用を見せたと思うのである。

 そういう意味では「ドラえもん」を藤子F不二雄の「呪縛」から解き放つ、非常にエポックな作品となったと思う。賛否両論ある本作であるが、私は本作を断固支持する。大好き。(★★★☆)